不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(16)
逃げた女房は帰ってこないらしいが
戻ってくるなと言っても戻ってくるのが放蕩(ほうとう)息子と汚れた霊である。それに付け加えれば、運の悪さということになるだろうか。さて、人間があるべき姿から離れてしまうのは致し方ないとして、その原因といえば何を想像するだろうか。人間にまとわり付くトラブルは、すべて悪霊の仕業と言ってしまえば答えは簡単である。しかし他人に向かってそのようなことを言うのは控えた方がよい。なぜならそれは、相手に対する人格否定となる場合が多いからである。
だいたいにおいて悪霊が取り憑(つ)いたことなど人間には分からないのだ。ほとんど誰もそんなことには気付かないものだ。そもそも悪霊などという存在があり得るのか疑う人が多いのだ。大抵はたまたまキリスト教に足を踏み入れて聖書から悪霊の存在を知らされるだけである。悪霊が本当に存在しているのだとしたら、なぜ神はそのような邪悪をさっさと滅ぼさないのか。そうであれば人間の苦労や苦しみも少しは減るのではないのか、と誰もが文句を言いたくなる。
さらに主イエスによれば、悪霊はどうも掃き清められた場所を好むというのだから始末が悪い。もちろん、それは主イエスの比喩に違いないのであるが、どうも気になるのだ。出ていった悪霊など戻ってくるなと思うのである。ならば扉を閉めて防衛すればよいと言うかもしれないが、実のところ、人間にはどうもそのような防御システムは備わっていないようだ。まったく厄介だ。
常人は悪霊を求めるべからずである
「汚れた霊は人から出ると、砂漠を歩き回って休息の場を探すが、見つからないので」(ルカ11:24)と主イエスは言われた。何とも意味深な言葉である。フランシスコ会訳聖書の注釈欄には「『砂漠』は、悪霊の棲処(すみか)とされた(レビ16・10参照)」と書かれている。実際にレビ記を見たが、それらしいことは明確には書かれてないように思う。しかし、確かに砂漠には得体の知れない霊体がうじゃうじゃしているという感覚を古代人は持っていたようである。われわれの多くは本物の砂漠を知らないのであるから何とも分からない。福音書には主イエスが荒れ野で悪魔から試練を受けたことは書かれている。砂漠と荒れ野は似たようなものであろう。
ある人たちは自分を鍛えるために荒れ野に行ったらしい。それを修道と呼ぶのであるが、それは何もキリスト教のオリジナルではない。中東地域の宗教にはそういう習慣があるのだ。なぜ荒れ野に行くのか。理由はそこに悪霊が住んでいるからだ。わざわざ得体の知れないものに身を任すということなのだ。悪霊に打ち勝つ自信があるからそこに行くのだとしたら、なるほどそれもよかろう。あるいは悪霊にこてんぱんにやられ放題になったときにこそ、人間は神に助けを求めるという、そういう極限にある自分自身に出会うためなのかもしれない。怖い物見たさもいい加減にしろと言いたいところだが、実際の修道士たちがいい加減な気持ちで砂漠に出ていったのではないことは保証する。それ相当な覚悟と対策がなければ、自分自身を悪霊にさらすようなことは絶対にすべきではないのだ。
ネガティブシンキング
とにかく人間が悪霊に悩まされる難儀な存在であることを受け入れよう。実際にそうなのだから。とはいえ、ではどうすればよいのかということになる。人間の内側に鍵をかければよいのだが、鍵をかける方法を知らない。意地悪い言い方をすれば、「悪霊を内側に閉じ込めておく」のは、割と簡単かもしれない。それは保存状態のよい悪霊ということになる。まあ、これについては筆者も体験済みだ。
霊体験などというものは人間の意識の投影にすぎないと考えれば、現代人には簡単な答えとなるだろう。つまり「悪霊のせいで悪いことをしてしまいました」と。それは何とも無責任ではあるが、ある種の言い訳として重宝されるのも事実だ。人間を苦しめる運の悪さというのは、どうしても悪霊の仕業にしたいものだ。まさか何でもかんでも、「お前の罪によって、つまりお前が悪い人間だから、お前は悪い目に遭ったのだ。反省しろ」と言うわけにはいかないからだ。苦しみ、悲しみ、つらさを「それは私の罪に対する裁きなのだ」などと早とちりしていると、ろくなことはない。それが神の裁きであるという証拠など何もないのだ。
それとも、信仰者なら運の悪さを感じる場合でも、「それは私の罪に対する裁きなのだ」と自己納得せねばならないのだろうか。つまり「私は神に先立って自分を裁いてよいのか」という究極の問題にいつも直面している。人間は罪を犯す。そのことについては敏感でよいと思う。懺悔(ざんげ)は必要なのだ。だからといって、自らが直面する諸々の不幸に対しても、それが神の裁きの結果だと考える必要があるのかと私は疑問に思うのだ。そういう意味で、自らの不幸を考えるときに、それは外側から働き、「悪霊」という厄介ものにちょいと責任を被ってもらうのもありなのだ。
本質的には悪霊払いと同じではあるが
主イエスの言葉が比喩的であるのは分かるが、それにしても汚れた霊が砂漠をうろうろしているのに休息の場所が見つからないという表現はどうも気になる。砂漠や荒れ野がお似合いという存在であるけれども、実は悪霊にとっても居心地が悪い場所なのだというのだ。何とも皮肉めいた表現である。
宗教にもいろいろあるが、「悪霊払い」を根っこから否定的に考えるのは、プロテスタントだけではないだろうか。筆者もその一人であるが、私は悪霊払い的なことにはまず関わらないし、悪霊払いは迷信的な下級の宗教行為と思っている節もある。そう、近代宗教は理性的であるべしだ。それが近代理性主義に身を委ねている福音主義プロテスタントの姿でもある。その感覚はよく理解できる。悪霊払いは儀式である。儀式の多くは秘伝である。かなり一子相伝的な何かである。どうもそういうやり方をわれわれは好まない。できるだけ理性的でありたいのだ。だから悪霊払いとは言わずに、わざわざスピリチュアルケアなどという言葉を用いるのだ。実のところ、本質的なことをいえば同じではあるのだが。
それでも悪霊はいる
出ていったくせに、行った先に安息がない悪霊たちは何とも気の毒なことである。こういう意味において、主イエスが語る汚れた霊や悪霊というのは、至って人格的である。この点は重要なのかもしれない。もちろん悪霊に人格があるとは思えないが、しかし、どうも悪霊に意思があるように主イエスは語るのである。もちろん主イエスは、悪霊などという「邪」なるものはどうしようもないなどと言っているのではない。あるいは世の終わりまで、邪悪なるものと神聖なるものの戦いが続いているという善悪の戦いを語っているのでもない。そもそも神はいかなる悪にも邪にも最初から勝っているのだ。ではなぜ神は悪霊なる存在を滅ぼさないのか。至って素朴な問いである。
神は悪霊どもに勝利はしないのか、支配はしないのか、もしかしたら神にも手に負えないのか、そんな余計なことを考えてしまうのが人間である。われわれ人間から見ると、どう考えても神は悪霊などを放置している。本当は完全にコントロールできるし、消し去ることもできるのに、なぜか放置している。この事実に何ともいえない不安感を感じているのだ。
ある人はこのように言うだろう。この世には邪悪がある、それは天地創造の初め、アダムとイブの罪によりこの世は呪われたからだと。その結果として、この世は悪霊どもの自由な場所になっているのだと。うーむ、それも極論に思えてならない。アダムとイブの違反によってこの世が呪いの中に置かれたとしても、どういうわけか、神は一切合切をリセットしなかったのである。神が全能であるならリセットなど簡単なことなのに。しかし神はリセットをしない。世界を造り替えない。創造の初めに時間を巻き戻すことはないのである。なぜ悪霊という何とも不思議なものが存在するのか、われわれには分からないが、そういう世界そのものを神はリセットしない。これはとても重要だし興味深い。やはりわれわれは、悪霊はいるものとして受け入れていくしかない。やるせないけれども、それがこの世界なのだ。この現実の中でどう生きていくのかが問われる。
これも原罪なのか
悪霊もまたさまよう。人間もまたさまよう。両者には親和性がある。簡単に結び付くのである。それはあっという間にそのようになってしまうのであるが、その瞬間に気付く人はほとんどいない。十分に悪霊にしてやられてから気付くのである。そのような親和性こそ原罪と呼ぶにふさわしいと筆者は思うのである。意外と人間の原罪性、アウグスティヌスの本音もそこにあったのではないだろうか。「私は悪霊に取り憑かれやすいのです」などと自慢するわけにもいかないが、このどうしようもないやるせなさをずっと前の先祖に責任転嫁するのも悪くはない。アダムやエバさえも邪悪なる存在といとも簡単に結び合わされ、神との関係を引き裂かれたのだ。結局のところ、悪霊にとって居心地がよいであろう自分自身を何とかしないといけない、そう自覚しているうちが人生の華だ。悪霊どもに占領されてなおも気付くことなく生きているなら、それはもう地獄絵図としかいいようがないのではないか。主イエスに聞くしかない。(続く)
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