不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(15)
※ 前回「人生は三度くらいおいしい(その3)」から続く。
名前はヤハウェ。ではあるが・・・
確かに出エジプト記3章15節では、原文でヤハウェという名前が語られているのだが、大抵どの訳の聖書も慎み深く「主」という言葉を充てている。これはみだりに神の名を呼んではならないという十戒に基づくものであろうが、実はそれよりもっと重要な意味を持っているのかもしれない。つまり、神名というのはあまり必要ないということではないかと私は考えるのだ。この点については、プロテスタント側の方がヤハウェという神名について、その誤用論的な意味合いをあえて語りたがる傾向があるのだが、しかしそれは、われわれが神について「知ったかブリッ子」になっているだけかもしれないのだ。
ヤハウェという名前そのものには「生成」に関わる意味がありそうなのだが、事実そのように知ったかぶりの解説を読む度にうんざりする。そもそもわざわざヤハウェという言葉に「生成」を読み込まなくても、創世記そのものが、神はあらゆるものを創造する方だと教えているのであるから、あえて名前の中に特別な意味を見いださなくとも、事実として神の本性を知るわけである。だから実のところ神名はあまりこだわる必要もないと思うのであるが、いかがであろうか。3章15節が神の本性を宣言しているというよりも、むしろ大切なことは、モーセに臨在した神はアブラハム、イサク、ヤコブの神であること、そこに尽きると思う。
託されたもの
神はモーセに、行ってイスラエルの長老たちを集め、神の言葉を伝えるように告げる。何というかこれもまた不思議である。なぜモーセに言葉を託するのか。長い間、イスラエルの群れから離れ、しかも逃げ出すように同胞から離れていったモーセにである。モーセは他の同胞に課せられていたような強制重労働の経験もないのだ。どうやってもモーセがイスラエルの長老たちに歓迎されるとは思えない。神がモーセに言葉を託した理由はわれわれには明確には分からないが、でもモーセが直面するであろう困難は想像できるのである。一体どうやってモーセは長老たちを集めて説得できるのか。しかも神は間髪を入れずに、これからなさんとされることを告げる。
わたしは、お前たちのこと、エジプトでお前たちがどのように扱われているかを確かに見た。そこでわたしは、お前たちをエジプトでの苦しみから救い出し(中略)乳と蜜の流れる土地へ導き上がることを約束する。(出エジプト3:16~17)
神に聞くもの
神の約束を携えた者、それがモーセである。イスラエルの解放者というよりも、やはりモーセは預言者である。そして預言者は民の元へと遣わされるものである。モーセ自身は、自分は雄弁でないからと躊躇(ちゅうちょ)するが(4章10節)、だからといって神の意志が変わるわけではない。神は雄弁ではないモーセのために兄アロンの存在を知らせる。なるほど、預言者が雄弁である必要はないようだ。「アロンは、主がモーセに語られたすべての言葉を話し、民の目の前で徴(しるし)を行った」(4章30節)。つまり、モーセの第一の役割は神の言葉を聞くことである。どうしてもわれわれは、預言者といえば雄弁に語る者を思い浮かべてしまうが、モーセの場合はそうではない。まず聞く者である。いや、モーセに限らず預言者たちは第一に聞く者であった。神に聞く者の役割は重いのである。神から聞く言葉は心地良いものばかりではない。いや、むしろ、神の民への裁きの声が圧倒的に多いのだ。それでも聞かなければならない。
モーセの偉大さ
「1粒で2度おいしい」。アーモンドグリコのキャッチコピーであるが、頭から離れないフレーズでもある。このうたい文句によってグリコは大成功を収めた。モーセの人生を振り返りつつ最初に思いついたフレーズは「人生は三度おいしい」であった。もちろんグリコへの対抗である。一度目はナイルの出来事、二度目は神との出会い、三度目は40年間の長旅である。
80歳から120歳まで、モーセはイスラエルの民を導いて荒れ野をさまよう。長い、長い道のりである。その40年間、モーセは神の言葉を聞き続けたのだ。われわれは時として聖書を読むことを「神の言葉に聞く」と比喩的に表現する。だからわれわれはモーセと同じだと言っているのではない。まったく違う。モーセは直接に神の言葉を聞き続けたのである。いや聞かされ続けたというべきか。われわれは聖書を閉じることができるが、モーセはそうではない。
また一方でモーセは、イスラエルの民の不平不満を聞き続けた。人々は砂漠での苦労事の度にモーセに八つ当たりする。モーセは神と人々の間に立って聞き続ける。すごいことだ。まねをしたいとは思わないが、うらやましいと思うのである。誰もが体験できることではないし、恐らく誰もが数日で逃げ出してしまうほどの苦労だろう。こんな体験はそうそうできないのだ。さらにいうなれば、モーセにはかつてのように逃げ出すチャンスがあったかというと、たぶん否である。神からは逃げられない。事実として逃げられない。われわれはしばしば神から逃げ出すか、神を放置して知らん顔をする。だから神から逃げられない人間とはどういうものであろうかを想像ができない。モーセは偉大な人間である。歴史の事実としては、囚われのイスラエルの民を故郷カナンへ導いたこと。でも、それは表面上のことだ。モーセの偉大さは神との出会いそのものの中にあるのだ。
人生は三度おいしい
人生は三度おいしい。こじつけであるが、こだわりたい。生まれたこと、育ったこと、そしてあとは何だろう。われわれもまた、モーセのように神から逃げられない人生を生きられるだろうか。いや、そういう人生に耐えられる自信もない。逃げられてこその神であり、捨てられてこその信仰である。神を捨てて、信仰の群れから離れる可能性というか、醍醐味(だいごみ)というか。どこかでわれわれはそういう現実を楽しんでいるのだ。楽しんではいるが一方でもやもやしている。
ではモーセはどうであったのか。本当に三度おいしい人生であっただろうか。私には分からない。モーセは人生の最後の日に神に手を引かれてカナンの地を見渡した(申命記34章)。彼が導いてきたイスラエルの民がこれから帰ろうとしている土地である。そこにモーセ自身は足を踏み入れることはできなかったが、彼は確かに自分の人生の続きを見たのである。彼の死後、彼の人生を引き継いだ人々が歩いた大地を。これからイスラエルの民が歴史を織りなす大地を。歴史だから悪いことも繰り返されていくのではあるが、それでもそこがイスラエルの民の地である。モーセの人生の続きである。やがて神ご自身が受肉されてイスラエルの末裔(まつえい)と共に過ごす大地である。キリストがそこに生きて、十字架で死に、そして復活した「その場所」を、モーセは人生最後の日に神から示されたのである。モーセは死んだ。120歳だ。「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」。これこそが人生のおいしさだ。われわれも人生の続きを見ながら死ねるだろうか。三度目のおいしさを味わいたい。信仰とはそういうものであろうから。(終わり)
◇