不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(14)
※ 前回「人生は三度くらいおいしい(その2)」から続く。
呼ばれているということ
神は柴の中からモーセの名前を呼んだ。名前を呼ばれることには意味がある。神は「お前の名前は何というのか」とは言わない。ただモーセの名前を呼ぶ。つまり、お前のことは分かっているという意味である。私に近づいてくるお前が誰であるのかを承知している、と神は言われるのだ。モーセは自分が何者なのか逐一説明する必要もない。
実はこれが、信仰の世界でいかに大事なことであるのかあらためて教えられる。われわれは祈りの場において、必要以上に自分のことを説明していないだろうか。まるで神は、私のことなど分かっていないのだという悲壮感に動かされて祈っていないだろうか。われわれ自身のことについて、われわれが神に説明する必要があるのだろうか。われわれが真実なる祈りの時を持つならば、当然「私はすでに神に知られている」という確信を持って向き合うべきではないのか。われわれは祈りの先にいる方の存在すら疑いながら祈っているのではないか。そういう自分自身に対するいら立ちは、誰もが感じるものなのかもしれない。
ギリシャの聖山アトスに伝わる(らしい)祈りはごくごくシンプルである。「イエス・キリスト、神の子、救い主、憐(あわ)れみたまえ」。これを何度も繰り返し祈ると聞く。そうすると、祈っている自分自身が無になっていくと。そこではただ、神と自分自身が深い交わりの中で合一するのだといわれている。むろん、このような祈りは聖山という場所でこそ成立するものであろうが、しかしわれわれもなるべく自分を消した祈りによって、神との交わりを求めるべきではないか、と思わされるのである。神はすでにあなたを知っているのだ。
私はここにおります
「はい、ここにおります」とモーセは答える。ものすごく良い。身震いするほどに良い。普通なら柴の中から呼び掛ける声に驚いたり、当惑したりするものだ。こういう時に「はい、ここにおります」と答えられるというのは、よほど霊牲の強い人間なのだろうと思う。
神は言われる。「ここに近寄るな。お前の足の履き物を脱げ。お前の立っている所は聖なる土地だからである」。普段から聖域という概念を持たない人間は、いろいろな場所にずかずかと入ってしまう。聖域とはなんぞやと考えるとややこしくなるが、覚悟を必要とされる場所というべきか。元来、聖域にはおのずから力があるのであって、その力を侮ってしまうとえらい目に遭うはずである。逆にいうと、聖域の対義語は俗域ではない。聖域の対義語は無礼である。あるいは無関心である。そこに何らかの力が宿っていると意識するなら、聖域と霊域(これは悪魔的な力の支配という意味で)は同じではないが、人間への作用という意味では同じである。聖域は無礼が許されない空間であり時間域でもある。この世のある場所や時間に聖なるものが宿らないと考えるのはけして良いことではないし、キリスト教的でもない。霊域を信じていても、つまりこの世でサタンの作用があると確信している人間であっても、実のところ、聖霊の働きというダイナミックな作用をあまりにも限定的、思弁的、また哲学的な領域に閉じ込めている可能性がある。
神の力が働く場合にのみ聖域が実現するのであって、神の臨在がなければそこは単なる「場」であって聖域とはならない、という考えも成り立つのかもしれない。つまり、信仰的(しかも自分の宗教に関わるものだけ)に限定あるいは指定された場所だけが聖域なのだと考えてしまう。しかし、われわれはもっと謙虚に聖域について受け入れていく必要がある。神はすべてに宿るとはいかなることか。聖域に定められない場所であっても、人間の五感が高まって神の臨在を感じるということも確かにあるのだ。
神は過去の人の神ではない
神はご自身が、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗る。この時、われわれは気付くのであるが、モーセにご自身を明かした神は土地の神ではない。ある土地を治めるという意味の神ではないのだ。人と交わる神である。具体的な個人に関わる神である。そして神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると告げることによって、モーセの魂がどのように動かされていくかをご存じなのだ。そうでなければモーセの記憶、つまりモーセという人間がここに至るまでに何があったのかを思い出させようとする。もちろんそれは、モーセは乳飲み子の時にナイル川に捨てられ、エジプトの王ファラオの娘に拾われた身でありながら、不思議な導きによって彼を育てたのは、イスラエルの末裔(まつえい)である実の母なのだ。モーセのいわばアイデンティティーというものは、ファラオの家にあるのか、イスラエルにあるのか、はたまた、しゅうとエトロの地ミディアンにあるのか。いわば、お前は何者であるのか、ということを神は問われるのである。私はアブラハムの神であるが、お前には関係のないことなのか、ということであろう。
叫ぶ者たちの神である
さらに神は続けて言われる。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、酷使する者の故の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」。神は過去の神ではない。現臨する方である。単にアブラハム、イサク、ヤコブの神であられた方ではない。神は今もなお、ご自身の民を持っているのだ。ここで神は、それがイスラエルであるとは言わない。神の民が苦しみの中にあって叫んでいるのだと告げているのだ。
モーセにとってエジプトは過去の地である。数十年前に立ち去った地である。逃げ去った家であり、自らの意志で捨てた場所である。今、そこで苦しみ叫んでいるのが私の民であり、私が彼らの神であるというのだ。なぜそのことを、そこから遠く離れて生きるモーセに告げなければならないのか。それもまた不思議である。イスラエルであることを捨てた人間をわざわざ探し出し、神はその救済の担い手に定めたのだ。お前が捨てたイスラエルを、私はけして捨ててはいないのだということか。その奥深い事実は、もしかしたらモーセのごとき「捨てた者」でしか理解できないのかもしれない。遺棄された者、遺棄した者だけが、「神はけして遺棄しない」ということを知っているのだろう。これもまた神秘である。(続く)
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