不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(17)
※ 前回「やっかいな話(その1)」から続く。
戦うイエス
主イエスは悪霊を追い出す方である。もちろん、われわれは主イエスが悪霊を追い出すためにこの世に来られたとは考える。しかし主イエスは、悪霊に取り憑(つ)かれて苦しんでいる人を助けるために悪霊を追い出すのであって、悪霊除去そのものが目的ではない。だがわれわれは、善と悪の戦いというモチーフを好んでいるので、ついついその図式に主イエスを当てはめがちである。結果として、善と悪の戦いに見えるのは、人間を助けようとされる方は、一方で悪に立ち向かう方であるからだ。
もう少し見方を変えると、「われわれ人間はこの世界において善と悪の戦いの渦中にある」と短絡的に考えてよいのかと問いたい。確かに善と悪の戦いというのは、何かを理解する上で分りやすい構図である。まさか人は、自分が悪の側に属して善と戦っているとは思わない。つまり、そこまで悪になりきれはしないのだ。大抵の人は、自分がどちら側にいるのかさえ分からないのである。ここでは、罪と悪を同列にしてはならない。悪霊というものはもちろん人間ではないし、人間の成れの果てでもない。人間は罪を持つが、罪そのものであるとはいえないし、罪人が死して悪霊に転生するなどと間違っても考えてはならないのだ。
正義の側に立ちたいという欲望
罪が人間を支配しているといえば、確かにそうともいえる。悪が人間を支配しているということも同じである。しかし人間は罪ではないし、悪でもない。人間は人間にすぎないのだ。だから人間という存在が罪に属しているといえるとしても、罪を取り除くというときに「その人間そのもの」を取り除くというのはまったくナンセンスなのだ。悪に関しても同じことである。
罪や悪に支配されるのが人間であるから、罪や悪との戦いにおいてその人間を抹殺してよいわけがないのである。当たり前のことだ。当たり前のことであるが、しかし、人間の熱情、しかしも善に属しているという熱情は、時として人間に過ちを犯させる。罪や悪との戦いと称して、人間そのものを抹殺してもよいのだという狂気に人はしばしば支配される。実はこれこそが悪霊の仕業そのものであることを、われわれは事実として理解できてないのだ。
「聖は邪に関わらず」というわけにはいかない
悪霊を追い出す主イエスは、悪霊が支配していた人間を滅ぼすことはないのだ。そういう事例があるのなら、どうか筆者に教えてほしい。悪霊に苦しむ人間に向き合うのが主イエスであるからこそ、われわれはその方の声に聞こうとするのである。何も正義の味方を求めているわけではない。
しかし一方で、主イエスは悪霊に立ち向かう方であるから、批判を受けた方でもある。「彼は悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出している」(ルカ11:15)と、ある人が主イエスを中傷したのである。まるで、主イエスが悪霊の頭をこき使うかのごときである。恐らく当時の人々には、「聖者は悪しきものごとには関わらない」という共通意識があったのではないか。「聖は邪に関わらず」である。そのようなことをしたら「邪」が乗り移ってしまうと、いういわば迷信めいた観念というものがあるだろう。これもまた世界共通である。そういう意味で、この中傷は、イエスに対して「この人は聖者でも何でもない」という本音を吐露したものであろう。聖者であるなら「邪」に関わらず、聖者らしく「清く」あるべしということだ。もっとも主イエスご自身は、ご自分を聖者だと宣伝する気もなかったわけだが。
悪霊除去は結果でしかない
そこで主イエスは、邪を持って邪を滅すことを国家内紛に例えて語る。なるほど分かりやすい。悪霊をもって悪霊を追い出しても、結局はより強い悪霊が残るだけである。また、先に述べたように、主イエスの目的は悪霊除去ではない。目の前で苦しんでいる具体的な人間の救済なのだ。当時はいろいろな苦しみを悪霊の仕業と表現するしかなかったであろうし、もちろん、悪霊の仕業であると理解するのは自由であるが、とにかく主イエスが向き合うのは人間である。悪霊除去は、人間への向き合いの結果でしかない。結果でしかないものを、主イエスの存在の目的であるかのように語ることはできない。
われわれにはいるべき場所がある
主イエスがなさった事柄によって、主イエスの偉大さや神聖さを語るのはよいと思う。それでも筆者が言いたいことは、主イエスの偉大さや神聖さを語るとしても、その時にあたかも自分たちも主イエスの側に立てるかのごとくうぬぼれてはならないということである。「われわれも主イエスの戦いに参加して、罪や悪を滅ぼしましょう」と簡単にのぼせ上がってはならないのだ。
果たてしてわれわれは聖者だろうか。仮にわれわれが聖者なる主イエスの側に立ち得たとしても、われわれはその衣の房に触っているにすぎないのだ。けしてわれわれ自身が聖者にはなれないし、聖者の従者面もできないのだ。むしろわれわれに期待されていることがあるとしたら、主イエスが癒やされた人の側に、謙虚に自分の居場所を見つけることではないだろうか。
それでも考えざるを得ない
では、方向性を変えてみるが、何にしても悪霊は現に存在するのであって、われわれはどのようにして悪霊から身を守れるのであろうかということである。同時に罪も存在するのであるが、その罪からどのようにしてわれわれは逃れられるのであろうか。
実のところ、よく分からない。聖性をまとって邪悪を避けるというのが人間の基本行動であるが、その聖性というものが実にまったく分からないのである。護符的な何かなのか。それは普通にそうであろう。でも護符も万能ではない。効果がない!などと無粋なことを言う気はないが、護符にはまると「銭失い」になるかもしれない。
固い信仰心というものは確かに効果があるように思う。それでもせいぜい、自分自身を守るにすぎない。筆者は熱烈ピューリタンの家庭に育ち、37歳から20年以上も両親と再同居している。熱心な祈り人である両親はもちろん息子のことも祈る。しかし、悪霊は無情にも時として息子を支配するのだ。両親が悪霊に支配された様子はないから、その信仰心というものは彼ら自身にはある程度は効果があったと思う。しかしその程度のものである。過大評価はできないのだ。
そもそも人間は罪や悪から逃れられない。ただの一人も逃れ得ないのだ。「天地創造の初めよりアダムの過ちによって人間は罪と呪いの中にあるのだから致し方ない」という原罪論的な絶望感もわれわれに希望をもたらさない。ではどのようにしてわれわれは邪なるものから身を守れるのだろうか。われわれは日々悩むのである。(続く)
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