不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(31)
※ 前回「生ける者と死ねる者への裁き(その1)」から続く。
死にかけたけど生きている
5歳くらいの時に脳炎を患ったらしいのだが、何となく記憶はあるが、深刻さは覚えていない。風疹(ふうしん)脳炎になり、もうちょっとで天使になりそうだったらしく、母親がオンオンと泣いていたと後から知った。
まあ、小さな子どもだった本人は、ぶっとい注射がバケツぐらいの大きさに思えたくらいなものだが。意識が戻ると、部屋中がおもちゃだらけになっていて、どうにも大変だったらしいことは、何となく感じ取ったものだ。
医者には五分五分の命だと宣告されていたようではあるが、生き延びてしまったことも、後遺症で多少なりとも人格に障害が残ったであろうことも含め、50年以上前のことだ。母親にとっては、ほんの最近のことに思えるのだろうけれども。
ヤイロは、今まさに娘のことで頭がいっぱいになっている。死にかけているのだ。父親として何とかするしかないが、ヤイロ自身にはなすすべがないのだ。
何日も祈って、祈って、祈り倒すのもよい。それを実際的ではないなどと、誰も述べる権利などないのだ。事実として、祈る以外に手立てがないということは、割と日常茶飯事であることを、われわれも知っている。
ヤイロの娘は、五分五分どころではない。娘の死が間近に迫っているというときに、ヤイロは祈りつつも、同時に何かできることはないかと求めていた。あれば何としても試してみる価値はあるわけである。
ヤイロに、イエスなら何とかしてくれるという確信があったかどうかは分からない。それは、われわれには知りようもない。しかし、確信している人もいたのである。これはもう、すごいとしか言いようがない。全く希有なことだ。
考えてみれば、豚に飛ばされた悪霊レギオンも、イエスならそうできるという確信があった。滅びの確信というのは、何となくやっかいな意識ではあるし、そんなものは誰も持つべきではないが、それもまたすごいことだ。邪なるものこそが聖なるものを知っているというのは、昔から文学の「ネタ」だったりするのだが、これも案外と聖書由来なのかもしれない。
でも今回の主役は悪霊ではない。「イエスの衣にさえ触れることができれば」と確信しているのは、か弱き一人の女性である。名前も知られていない人だ。
すごいことではないか
そう、その人こそが、12年間出血病を患っていた女である。年齢は分からない。多くの医者にかかったが、かえってひどくなり、苦しめられ、財産も使い果たしてしまった。
2千年前の医療がどのようなものだったかは不明であるが、現代でも病気の治療となれば、いろいろと苦しい経験をする。大病を癒やす薬はあるが、大抵は副作用が強いし、昔は、魔術と医術ははっきりと分離されていないものだったから、荒治療も含まれていたのだろう。断食どころではない。到底、普段ならとても口に入れられない何かを食べたり、体を鞭打つ以上のことだったりするだろう。
針治療が東洋独自のものと考えてはならない。西アジアでも体のツボに働きかける医療はあったはず。針で刺すなり、あるいは真っ赤に熱した鉄を押し付けるなり、そうした類いのことをしたのではないか。
この女は12年間も病を患っていたのであるから、体の隅々に治療跡が残っていても不思議ではないのだ。それにもかかわらず、病は悪くなる一方だったのだ。
イエスのことを聞いた彼女は、群衆に交ざり、イエスに近づくのである。何とかしてイエスの衣にでも触れられれば、癒やされると確信していたのだ。けして大げさに振る舞うわけではない。しかし、確かにイエスに触れたのである。
すると、立ちどころに病気が治ったことに気付くのである。この気付くというのが、すごいと思うのである。彼女がすごいと言っているのではない。強いていえば、イエスが向き合っている命のすごさである。人間が命懸けなら、イエスもまた命懸けである。その瞬間を逃したりしないのである。
振り返ったイエス
イエスは自分から力が出ていったことに気付く。それはそうだろう。誰も治すことができない病を癒やしたのである。ものすごい力が出ていったに違いない。そしてイエスは振り返るのである。誰が衣に触れたのか確かめようとする。
なぜだろうか。そのままそっと、彼女を去らせてもよさそうなものだ。それが誰なのかはっきりさせなければいけないことなのか。われわれならそう考えるかもしれない。しかし、そうではないのだ。
誰が病を癒やされたか知らねばならないのだ。それは誰のためだろうか。やはり、この女のためだろう。病を癒やされた女は恐れおののきながら、イエスのもとにひれ伏したのである。
そう、この人もまたひれ伏すのである。悪霊レギオンに取り憑(つ)かれた人、ヤイロ、そして名の知れぬ女。三者三様ではあるが、イエスにひれ伏すのである。マルコ福音書5章の隠されたテーマは、このひれ伏すという行為なのだ。
これではあまりにもイエスが高飛車に見えるではないか、と言う人もいるかもしれない。われわれにはそのようにイエスは見えているだろうか。いや、そうではないだろう。この世に生きた末に、切羽詰まった人間が、イエスにひれ伏しているのだ。
それは礼儀とか、そういうものではない。もちろん、上下関係の問題でもない。いや、そもそも自分がひれ伏しているという意識もなかったかもしれない。困難さ故に人生のある時点で立ち往生している人が、イエスにひれ伏すのである。おのずとひれ伏してしまった3人なのだ。
イエスは癒やされた女に言う。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうこの病気に悩むことはない」
膝を折り、手を突いてしまうということ
信仰とは何か。いくらでも書けるし、逆にいえば、誰も「かけら」も書けない。ヘブライ書は言う。「信仰は、希望している事を保証し、見えないものを確信させるものです」
言い得て妙であるが、実はよく分からない文章である。かといって全く分からないわけでもない。いや、むしろふっくらと包み込むような言葉である。そこには何の冷たさもないし、強制もない。信仰がこのようなものであるなら、その世界に飛び込んでみたいと思わせる言葉だ。
見えないものを確信させるものがあるとしたら、それが信仰なのであろう。本当に信仰があるとしたら、この病に苦しんでいた女のことだろう。さらに、われわれ自身においていえば、希望していることを将来において保証してくれるものがあるなら、それが信仰だと思いたい。
この人生の行き先において、しかも自分が望んでいることを保証するものは、地位でも、名誉でも、お金でもなく、信仰なのだと。そして、他ならぬこの私が信仰を持つことを許されるというなら、やはり誰しもが無理やりにでもその世界に足を踏み入れてみたいと思うものだ。
われわれは必ず窮する存在だ。かなりお先真っ暗な気がするが、それでもなお、われわれは何かを望んでいるものだ。そうでなければ、生きている気がしないというものだ。
望むものなく生きられる達人はいるかもしれないし、無論それはわれわれのことではない。何かを望みつつ生きる者として、人生に立たなければならない。踏ん張って立っている。でも、その踏ん張りがきかなくなって膝を折り曲げ、手を突いてしまう。そこにもしイエスがいるなら、それがひれ伏すということだろうか。
それでよいではないか。われわれは絶好調な人生を過ごして、胸張って堂々とイエスに相まみえるとか、そういうのとは無縁なのだから。(続く)
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