本連載は、神学書紹介コラムである。しかし、今回はあえて映画の話から入らせていただく。
映画にはミステリーというジャンルがある。ある事件が発生し、それが誰によって、またはどのような経過をたどるかを映像化したものである。当然、犯人や出来事の要因などがそこには含まれているため、視聴者はフーダニット(誰が犯人か?)またはハウダニット(どんなトリックがあったのか?)をあれこれと推理しながら見続けることになる。
だが近年の傑作ミステリーと呼ばれる作品の中に、これらにまったく答えず、実際に起こった事件の経過やそれを捜索する警察(および主人公たち)の心情のみに焦点を絞ったものがある。事件の背景や現状を垣間見せ、途中で「後は皆さんのご想像にお任せします」というブツ切れで終わらせるものである。
例えばポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」(2003年、韓国)、デヴィッド・フィンチャー監督「ゾアディック」(2007年、米国)など。未解決事件の映画化である以上、確かにここから先に踏み込むことはできないだろうが、勧善懲悪めいたハリウッド映画を見慣れている観客は「置いてきぼり」を食らった感が残る。
こういった作品を観て「で、犯人はどうなったの?」とか「結局、謎ってこと?面白くない」と思ってしまう者もいるだろう。しかし逆に「分からない、という結論だからこそミステリーだ」と喜ぶ者もいる。ちなみに私は年齢とともに後者へシフトしていった・・・。
今回取り上げる2冊は、同一著者によるコインの裏表のような作品である。『七十人訳ギリシア語聖書モーセ五書』(以下、『七十人訳』と表記)は、モーセ五書と呼ばれるヘブライ語聖書(または旧約聖書)の初めの5巻を著者が翻訳したものである。だから厳密には秦氏の作品ではないが、冒頭の「はしがき」と「あとがきに代えて」に、彼なりのこだわりエッセンスが掲載されている。
一方『七十人訳ギリシア語聖書入門』(以下、『入門』と表記)は、『七十人訳』の解説本である。こちらは、『七十人訳』がどのような意図で制作され、どんな時代的制約の下で形を成していったのかが大変刺激的に語られている。その後、この『七十人訳』がどんな変遷をたどり、現在に至っているかという歴史にも踏み込んでいる。
ご存じのように「七十人訳ギリシア語聖書」は、原本が残っていないヘブライ語聖書からギリシア語に翻訳された(旧約)聖書のことである。紀元前3世紀ごろからその必要に迫られ、遅くとも紀元前1世紀までには現在の(ような)形になった。
その後書かれた新約聖書では、記者たち(四福音書記者ならびにパウロたち)が「聖書」からさまざまな引用をしているが、それはヘブライ語で書かれた原典からではなく、この「七十人訳ギリシア語聖書」からであったといわれている。
ちなみにその後、11世紀に「レニングラード写本」というヘブライ語の写本が形成され、現在の「旧約聖書」はここから訳出されているとのこと。そうなると、歴史の不可逆性を加味して聖書の歴史をたどるなら、「七十人訳ギリシア語聖書」こそ「最古の聖書」ということになる。
しかし、私のようなペンテコステ畑でキリスト信仰を育み、福音派の中で活動する者からすると、本書で言及されているトピックスは、「刺激的」を越えてかなりの「劇薬」である。しかも「劇薬」を扱っているにもかかわらず、「〇〇についてはこれ以上のことは分からない」「~としか言いようがない」という着地点であるため、正直、戸惑いを隠せない。まさに映画「殺人の追憶」や「ゾアディック」を観終わったあとのような、なんだかすっきりしない感覚である。
しかし、私たちが忘れてはならないのは、本来学問というのはそういうものだということである。「起承転結」が小説や映画のようにはっきり区別されているわけではない。さまざまな文献や資料を、研究者が置かれている環境下で精査し、できる限り客観的で蓋然(がいぜん)性の高いものを自身の判断と責任の下で提示しているのである。ここに勇気を持って踏み込んだ者だけが、本書のような体系的な著作を形にすることができるのだろう。
『入門』にも『七十人訳』にも、私はそのような著者の苦悩の跡を読み取ってしまう。
私たち「信仰」者は、信心(信仰)とアカデミズムを水と油のように捉えてはいけない。確かに両者の間には決して埋まることのない隔たりが存在する。その間を埋めようとする飽くなき挑戦を続けている者の功績を、私は決して無視できない。またその過程を知ることで、私が毎日読み進め、毎週説教するためのソースとなっている「聖書」という書物がより身近に感じられることになる。
福音主義に立つなら、「聖書」は「誤りなき神の言葉」であり、「人類へ向けての神からのラブレター」ということになる。送り手である神が完全なのは分かるが、受け手である人間が矛盾や不条理を抱えていることを私は素直に認める。それなら「神の完全性」は、矛盾を含む人間にフィットする多様性や多義性を持たなければ、「誤りなき」とか「人類に向けた」という言葉と矛盾してしまうだろう。逆説的だが、「神の完全性」は人間の限界や矛盾を認めることによってのみ、その完全性を表明することができるはずである。
本書が私たちに教えてくれる事柄は大いにある。聖書を真摯(しんし)に読む信仰者であればあるほど、また、毎日神の前に自らを悔い改め、己を神としない生き方を実践しようとする敬虔な者であればあるほど、聖書の成り立ちやその背景に関しての知識、またそこで争われている神学的な対立といったものに触れることは、個々人の信仰成長に役立つと信じている。
しかし心してほしい。本書のような神学書は、結論を決して提示しない。絶対不変で論理矛盾が一切ない緻密性を求め、しかもそれを第三者から棚ぼた式で「教えてもらいたい」と願う人には不向きな本である。自ら探究し、汗をかき、己がどちらを信じるか、その選択を迫られることを厭わない、という方にとってはこれ以上ないほど面白い本となるだろう。
そういった意味で、これは神学的ミステリーの最高傑作である。しかし、結論も正邪の判断も一切示されていない。それでもいいから、という方はぜひ手に取ってもらいたい。
■ 秦剛平著『七十人訳ギリシア語聖書モーセ五書』(講談社学術文庫、2017年)
■ 秦剛平著『七十人訳ギリシア語聖書入門』(講談社選書メチエ、2018年6月)
◇