「2・26事件は、私にとって赦(ゆる)しの対象から外れています」
昭和史研究家で有名な保阪正康氏の最新のベストセラー『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)に出てくるシスター渡辺和子の発言だ。ノートルダム清心学園で長年、教育者として仕え、代表作『置かれた場所で咲きなさい』が200万部を超えるシスターは一昨年末、89歳で天に帰られた。
陸軍大将・渡辺錠太郎教育総監の次女として生まれたシスター渡辺は、1936(昭和11)年の2・26事件で、父が機関銃で殺されるのを目撃した。当時9歳だった少女の目の前で起きた悲劇について、保阪氏は本人が帰天する1年前に4時間にわたってインタビューした。保阪氏の狙いは、シスターのインタビューを柱に、昭和史最大の事件、2・26事件の闇を明らかにすることにあった。
その中で保阪氏は、著書の中で「復讐(ふくしゅう)の感情に身をゆだねれば、心の中の争いという苦しみはいつまでも連鎖を続けるだけだと思います」と、「赦し」の心を語るシスター渡辺に、2・26事件もそうなのか、と問うた。その時、シスターから返ってきたのが冒頭の答えだった。
保阪氏は、この発言に昭和史の本質を読み取る。事件を起こした青年将校以上に、その背後にいた真崎甚三郎大将、荒木貞夫陸相ら皇道派の陸軍幹部を、シスター渡辺は「赦せない」のではないかとみる。「昭和維新」を旗印に青年将校をそそのかしてクーデターを起こさせ、渡辺総監以下の重臣を殺害。昭和天皇が反乱軍として討伐を命じると、手のひらを返すように彼らを見捨てた――その卑怯さが「赦せない」のだと。その軍人たちは、後の太平洋戦争を引き起こす昭和史の主役となった。
このシスター渡辺の発言を読んで、カトリックのシスターとしての芯の強さと、彼女にして「人を赦せない」ことがあるのだと思った。そして私の脳裏には、「赦すべきこと」と「赦されざること」を問い掛けるある事件が思い浮かんだ。
1956、57(昭和31、32)年ごろ、東京都武蔵野市の吉祥寺教会に一人の男が現れた。
「私は1945(昭和20)年8月18日、カトリック保土ヶ谷教会(横浜市)で当時の戸田帯刀(たてわき)横浜教区長を射殺した犯人です。横浜憲兵隊に所属していたものです。ご親族や教会にどうお詫びをすればいいでしょうか」と “自首” してきたのだ。
事件を知らない吉祥寺教会のドイツ人主任司祭は、東京教区に慌てて問い合わせをする。当時の土井辰雄東京教区大司教(1892〜1970)――後に日本人として初めて枢機卿になる日本のカトリック界のトップ――は、推測だが、射殺事件現場の保土ヶ谷教会で処理に当った志村辰弥神父に話をつないだようだ。志村神父は吉祥寺教会に電話をした。
「『事件直後にすべてを赦し、犯人の改心を祈ろう』ということですべて解決している。その男に『あなたは赦されている』と伝えてほしい」
主任司祭からその言葉を聞いた男は、安堵(あんど)の表情を浮かべて姿を消した。事件は世に知られることなく封印された形で、今なおカトリック教会内部でも事件を知る人は少ない。
この戸田神父射殺事件の背後には、昭和史の謎に迫る深い闇があった。筆者は8年にわたってこの事件の真相を追い掛け、このほど『封印された殉教』(上下巻、フリープレス社)にまとめた。戸田神父は横浜教区長着座前の1942(昭和17)年3月、「日本の前途は危うい」と同僚の神父に語り、軍刑法違反(造言飛語罪容疑)で逮捕・拘留(裁判で無罪)という経験を持つ。
その後、1944(昭和19)年10月に横浜教区(神奈川、静岡、山梨、長野)の教区長に着座し、この時「私は、世界平和のため、日本のため、自分の命をささげます」と決意を語る。リベラルな立場を崩すことのなかった神父だった。しかし、横浜教区のカテドラル(司教座聖堂)である山手教会は海軍に接収され、保土ヶ谷教会に移った。
「玉音放送」のあった終戦の翌日、戸田神父は単身、山手教会に乗り込み「米軍の来ないうちに、一刻も早く返還を!」と申し入れた。しかし、海軍の港湾警備隊は「アーメン野郎、何を言うか!」と軍刀を抜かんばかりに怒鳴り、戸田神父は帰らざるを得なかった。
射殺死体が発見されたのはその2日後の18日夕刻。その日の午後に犯行現場の司祭館に入る憲兵の姿を目撃した人もおり、これにより「海軍の怒り→憲兵隊への通告→憲兵による射殺」という事件構図が “通説” としてささやかれてきた。事件から数年後に、吉祥寺教会に現れた憲兵を名乗る男の存在もこれを補強してきた。
しかし筆者の調査の過程で、米国立公文書館やバチカン秘密文書館から、この事件に関する資料を見つけることができた。米国立公文書館では、戸田神父が皇室の了解を取り、太平洋戦争の和平交渉を米国に要請する動きを、ローマ教皇庁(バチカン)に働き掛けていた書類などが見つかっている。
また射殺事件直後に、駐日バチカン使節のパウロ・マレラ大司教、土井大司教などが教皇庁に送った報告書には、はっきりと「このような良く計画された冷酷で非人間的な出来事を行った恐ろしい人々」という表現を使い、組織的、計画的犯罪であったことを示している。おそらくこの「恐ろしい人々」とは、憲兵を指していると思われる。つまり一時の衝動的な射殺事件ではなかったことを示しているといってよい。
明治以来、カトリック、プロテスタントは共に「わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)という立場から、天皇を「神」と崇拝せず、神社参拝を拒否してきた。しかし戦時色が強くなるにつれて、キリスト教への圧力は強まり神社参拝を受入れ、“聖戦推進” の戦闘機献納運動を行うまでになっていった。
この流れに乗らなかったホーリネス教会などは100人を超える牧師、信者が逮捕され、7人が殉教した(1人は出獄後死亡)。カトリック教会でも外国人神父が、「キリストと天皇とどちらがエライ?」という特高や憲兵からの無茶な質問に「それはキリストです」と答え、多くが逮捕されて拷問を受け、中には獄中死する人も出た。
戸田神父の射殺事件をこれらの文脈の中で見てみよう。日本の戦前・戦中、軍部や政府がキリスト教にどう対処しようとしてきたか、その結論が集約される事件ともいえるのではないだろうか。国論統一の流れに逆らう異端分子、「そのために日本は負けた!」という敗戦直後の軍部の憤懣(ふんまん)、戸田神父に向けられた銃弾にはその怒りが込められていたのではないだろうか。
一方、吉祥寺教会に現れた “犯人” に面会もせず、主任司祭に電話で、犯人の男に対し「赦されている」と伝えるよう指示した、当時の東京教区の対応には疑問を感じざるを得ない。少しでもその男に話を聞けば、事件の背景や、男がなぜ名乗り出る気持ちになったのか、憲兵隊を含めた組織犯罪の実態など、戦前・戦中の軍部とキリスト教の関係について明らかになったことは多かっただろう。それはカトリックといわず、プロテスタントにも大きな歴史的教訓を生んだのではないだろうか。
想像するに、戦時中の指導体制を引きずったカトリック教会幹部は、“犯人” の自白によって、戸田神父の戦時中の和平活動の実態などが明らかにされ、戸田神父が「平和の使者」として評価されることを恐れたのではないだろうか。その評価は戦時中、政府・軍部に屈服し、神社参拝や戦意高揚にまい進したカトリック教会幹部に対する批判となって戻ってくることは必至だったと思われるからだ。
シスター渡辺は2・26事件後、80年たっても青年将校をそそのかし、その背後でうごめいた陸軍幹部を “赦せない” という。今年は戸田神父の生誕120年、事件から73年目の年だ。「歴史は繰り返すのではないが、歴史から学ぶことはできる」(ティモシー・スナイダー米エール大学教授)。戸田神父の事件もその背後関係を考えれば、カトリック教会にとって「赦せない」事件なのではないか。今の危うい時代の中、戸田神父射殺事件の教訓を学び直す時期なのかもしれない。
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