「あなたは戸田帯刀(とだ・たてわき)師を知っていますか?」というサブタイトルを付けて、「封印された殉教」を『福音と社会』(カトリック社会問題研究所刊)に書き始めてから、もう5年もたつ。当初、ネットで「戸田帯刀」の項目を引くと、昔の大映時代劇に出演していた大部屋俳優の名前や、射殺現場となった保土ヶ谷教会の「教会の歴史」にヒットする程度だった。
その頃発刊された『新カトリック大事典』を引くと、出生地が山梨県東山梨郡西保村なのに西「穂」村に、そして射殺された日付が8月18日なのに17日になっていたりする。「終戦3日後、教会の司祭館で起きた高位聖職者の射殺事件に対して、なぜきちんと調査しないのだろうか?」「何かタブーがあるのではないか?」 元新聞記者の心がざわついてきた。
戸田師のことを知ったのは30年前、新聞社支局長として戸田師の出身地である山梨県の甲府にいたとき、偶然、カトリック甲府教会に掲げられていた出身聖職者の顔写真を見たからだ。「戸田帯刀とはまた珍しい名前、お武家さんを先祖に持つ人かな?」と思った程度だった。しかしその年(1988年)、ミラノ外国宣教会のイタリア人神父が自分の足で書いた『山梨県カトリック宣教100年誌』で戸田師の項目を見たとき、この事件の概要を知り驚いた。当時存命だった戸田師の親族、関係者などに丁寧に取材を重ねてこの事件を書いている。
それによると事件の概要は――。
戸田師が射殺死体で発見されたのは1945(昭和20)年8月18日の夕刻、カトリック保土ヶ谷教会聖堂の右手にある司祭館1階の現在の事務室だった。当時、山手教会は聖堂も海軍横浜特設港湾警備隊に接収、司教座は保土ヶ谷教会に移らざるを得なかった。
戸田師は終戦の8月15日の天皇の敗戦を告げる玉音放送のあった翌日の16日、山手教会に居座る港湾警備隊の幹部の所に単身乗り込み、教会の返還を求めた。しかし敗戦を受け止められない将校らに「アーメン野郎、何を言うか!」と軍刀で切りつけんばかりの怒声を浴びた。その怒りが憲兵に伝わり、拳銃で射殺されたといわれてきた。
司祭館に入っていく憲兵服姿を聖堂の窓越しに見た目撃者がいたが、犯人は分からず、戦後十数年後、東京・吉祥寺教会に「私が犯人です」と名乗り出た男がいた。しかし連絡を受けた東京大司教区は、事情も聞かず「赦(ゆる)します」と伝えて行方は分からない。
――というものだった。
しかし戸田師の出身地は、甲府時代、私も何回か出掛けたことがある。山深い熊の出る、今でこそブドウの巨峰の生産地として有名な現在は、山梨市牧丘町西保だった。戦後も養蚕で生計を立てる農家の多い貧しい地区だった。
イタリア人神父の調査によると、1898(明治31)年に養蚕農家の三男として生まれた。そこから当時でも東京の私立高ナンバーワンだった開成中学(現在の開成中学・高校)に学び、カトリックと出会い洗礼を受け、開成中に通いながら神学校に入学した。関東大震災直後の1923(大正12)年、ローマのウルバノ大学に留学、ローマで1927年に司祭に叙階された。帰国後、喜多見、関口、麻布などの教会の主任司祭となり、1941(昭和16)年に札幌教区長に。在任中、反戦言動を取ったとして軍刑法違反造言飛語罪で逮捕、拘留、無罪となるが裁判にかけられた経緯もある。1944(同19)年に横浜教区長に。そして1945(昭和20)年8月18日、保土ヶ谷教会にて射殺死体で発見される。
「なぜ山梨県の山村出身者がローマまで行くようになったのか?」「なぜ北海道で逮捕、横浜で射殺されなくてはならなかったのか?」「なぜカトリック教会は事情も聞かず犯人を許したのか?」などなどの疑問が湧き、事件の真相を調べてみようと元新聞記者として取材意欲が出てきた。10年近く前から、北は北海道から九州まで関係者を訪ね歩いた。その取材結果を「封印された殉教」と題して、5年前から連載を始めてこの7月で28回目となる。
驚いたことに最近になって米国立公文書館の公開機密文書の中に、戸田師が当時の教皇ピオ12世に「太平洋戦争を終結する提案をしたい」という文書を出していることが明らかになった。日本のバチカンに向けた終戦工作の一翼を担っていたのではないか、という見方も有力になってきた。
1944(昭和19)年の横浜教区長の着座式が、伊勢佐木町近くの若葉町教会(現・末吉町教会)で行われた。その時、丸坊主となって現れた戸田師は、「私は、世界平和のため、日本のため、自分の命をささげます」と決意を語った。今、保土ヶ谷教会の聖堂脇には、この言葉を刻んだ小ぶりな石碑が立てられている。
戸田師は、自分のこの言葉を実践したのではないか。単なる教会返還を求めた恨みで「消された」のではない、複雑な終戦工作の一翼を担ったが故に殺された、という見方もできるかもしれない。
戸田師は保土ヶ谷教会に司教座が移る前の5月1日から50日間、午前0時から2時間、ファティマの聖母への取り継ぎを願い、山手教会の聖母像にひざまずき「平和」への祈りをささげたという。この間には死者1万人を出した凄惨(せいさん)な横浜大空襲もあった。この祈りを終えた後、「日本は8月15日の聖母被昇天の日に終戦を迎える」と預言したという。
憲兵や特高の監視の下、次から次へとキリスト者が逮捕され、獄中で拷問死する聖職者もいた。カトリックでは大阪・北野教会のブスケ神父様は、1943(昭和18)年2月、「全能の神は天皇の上に立つ」と信者の青年に語り、逮捕される。この青年は実は憲兵だった。おとり捜査だったのだ。手ひどい拷問を受けたブスケ師は発狂し、病院に移送されるが死亡する。このほかプロテスタントでもホーリネス教会、灯台社事件など、恐らく20人を超える獄中死を出す無残な弾圧を受けた。
現在、集団的自衛権の名のもとに海外にまで派兵しようという、戦後70年のタブーを破る動きが出てきている。今、私たちが享受している「信仰の自由」は、「平和」があるからこそ確保されている。そのことを「平和の使徒」戸田師の非業の死は、教えてくれているのではないだろうか。
おかげさまで連載を続ける中で、各地で戸田師に対する関心は高まりつつあるように思う。既に北海道、甲府、保土ヶ谷、吉祥寺、岡山などで講演会が開かれ、この事件について新聞報道もされたりしている。講演に来てくださる方も段々と増えている印象がある。「そんな事件があったんですね、初めて知りました。カトリック教会の戦前の重い歴史を知る必要があると思います。こういう犠牲があって私たちの教会は成り立っているんですね。ぜひ本にしてください」と感想を残される方もおられる。5年がかりで連載してきて本当によかったと思う。
何とか戦時中の神父様方が、平和の中でこそ信仰を守れるという思いを持っていたことを知ってほしい。その象徴として戸田師のことを知ってほしいと思う。教皇フランシスコは、去る5月にエルサルバドルの内戦時(1980年)暗殺された解放の神学の有力者だったロメロ大司教を列福した。それまでは政治的要素が強いとして列福はされていなかった。
この戸田師の射殺事件は「信教の自由」の大切さ、それを守る根底に「平和」がある。その信念と行動のために戸田師は暗殺されたのではないか。戦後70年を迎えるにあたって、カトリック教会としてもきちんとした研究・調査を行うべきではないかと思う。
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佐々木宏人(ささき・ひろと)
ジャーナリスト。元毎日新聞社経済部長。カトリック荻窪教会所属。