三浦綾子が榎本保郎牧師の生涯を描いた伝記小説『ちいろば先生物語』に、ある若者の姿が描かれている。
「保郎の目に、後宮俊夫は魂の抜けた人間に見えた」
(中略)
「今のところ、ぼくは、神を信ずる気持ちなど、これっぽっちも持っとらんのです」
若き日の後宮(うしろく)俊夫氏の姿だ。93歳となる現在も、日本基督教団甲西伝道所(滋賀県湖南市)の牧師として礼拝を守る後宮氏は、18歳で海軍兵学校に入学、海軍将校として連合艦隊の戦艦「霧島」に乗り込み、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ソロモン海戦を戦い、海軍大尉として終戦を迎えた。敵国米国の宗教だとして、キリスト教は大嫌いだった後宮氏が、榎本牧師に出会い洗礼を受け牧師となり、後には日本基督教団の総会議長を務めるなど、50年以上にわたって牧会に携わってきた。また早くから教会の活動として、障がい者や高齢者の福祉事業に携わってきた。
自伝『み手のうちに―激動の時代を生き抜いた八十年』の中で、後宮氏は自身の信仰を支えたものを、「キリストの平和」だとつづっている。戦後70年を迎える今をどう見ているのだろうか。湖南市の自宅で静かな生活を送る後宮氏を訪ね、話を伺った。
クリスチャンの母と陸軍軍人の父の間に生まれ、海軍軍人へ
後宮氏は1922年(大正11年)、ミッションスクールの広島女学院で宣教師から洗礼を受けた母と、陸軍士官学校を出た陸軍軍人の父の間に生まれた。クリスチャンだった母から、「決して出世はしなくていい。正しく生きるように」といつも言われ、自由メソジスト教会の日曜学校に通わさせられたという。しかし、「6年生のとき、島原の乱でキリスト教が悪者扱いされているのを知ったり、周りが女の子ばかりだったのが嫌になったりして(日曜学校に)行かなくなったんです」と振り返る。いとこには、陸軍参謀次長を務めた後宮淳陸軍大将(1884~1893)もいた軍人一家。後宮氏も子どもの頃から軍人に憧れ、18歳で海軍兵学校に入学、厳しい教育を経て1941年に卒業した。
開戦の年、上官の語った言葉を今でも覚えているという。
「もう既に油の輸入が止められている。このままでは海軍は飾り物になってしまう。戦争をやるのであれば今年中、しかしやれば1年もたないであろう。君たち生徒は430人卒業するけれども、1年後には10人程度しか残っていない。生き残っているものは大将になっていることは間違いない」
卒業後、連合艦隊の戦艦「霧島」に少尉候補生として乗務。1941年12月8日の真珠湾攻撃、42年6月のミッドウェー海戦にも参加する。米軍の反攻作戦が始まった42年11月の第3次ソロモン沖海戦では死を間近に体験した。
戦艦「霧島」の沈没で九死に一生を得る
当時、南方のソロモン諸島にあるガダルカナル島は補給を絶たれ、「餓(が)島」と呼ばれた。島に増援兵力と物資輸送の支援を行うため、第11戦隊として霧島も送られた。42年11月12日には米艦隊と遭遇し、激しい砲撃戦となる。高角砲の指揮官をしていた後宮氏の付近で米艦の弾頭が炸裂、重傷を負う。肩甲骨の上に手のひら大の穴が開き、複雑骨折を負い、腹にも弾の破片が突き刺さったという。その後、「総員、上へ」の号令が掛かった。
ミッドウェー海戦で多くの将校が船と運命を共にし、死んだことの教訓として、戦艦を捨て退去することになっていたという。総員が並び、御真影(天皇の写真)を他の船に移し、戦傷者を移らせようとしたとき、霧島が傾き沈みだした。
「『飛び込め!』と言われたが、なかなか飛び込めず、舷側を転がり落ち海面に飛ばされた。意識を失っているところを近くの水兵が引っ張り揚げて助けてくれた。意識があれば、むしろ水を飲んで助からなかったかもしれない」と後宮氏は言う。
3日後にトラック島の病院に入院。傷口にはアオカビが出ていたが、出血が少なく命拾いした。「手が動かず生き残っているなら、戦死して靖国神社に祀(まつ)られた方がよかった」と思ったという。
その後、戦艦「山城」の乗務を経て、44年3月からは、駆逐艦「霜月」の艤装(ぎそう)員となる。
「44年頃は部下の多くは13、4歳の少年兵で、訓練をしていても泣き出すような状態でした」という。シンガポールからの船団護衛の任務に当たったが、速力はわずか6ノット。もはや自分の船を守るのが精一杯だった。44年10月からはフィリピンで神風特攻作戦が始まる。先陣を切って戦死し、「軍神」となった関行男大尉は海軍兵学校70期の同期生。「同期生のやつが靖国に行ったのは誇らしいことだ」と思ったという。
45年8月15日、海軍大尉の時に終戦を迎えた。最後に出た指示は、「病院の物資について、3分の1は民間に分け、3分の1は隠匿し、3分の1は自分たちで分けろ」だったという。
大嫌いだった米国の宗教キリスト教
軍務を解かれ、三重県の真珠の養殖場で働き出すが、生涯をささげるつもりだった海軍がなくなり、人生の目標を失いかけていた。その後、母のいた京都に戻り、出会ったのが榎本保郎牧師だった。
「当時、米国の宗教であるキリスト教は大嫌いだった」と後宮氏は言う。戦争中、南方に配置された同期の海軍将校の多くが、部下の罪をかぶってBC級戦犯に指定され、処刑された。勝てば官軍とばかりに、戦犯裁判を行う米国に怒りを覚えた。米国の宗教であるキリスト教もまた許せなかった。
しかし、母が榎本牧師が牧会する日本基督教団世光教会(京都市)の早天祈祷会に通うとき、まだ薄暗くて怖いので付き添ってほしいと頼まれ、教会に通い始めた。陸軍中佐を辞め、工員として働いていた父・太郎氏が自殺すると、借家にいづらくなった。「私の所に来なさい」と言ってくれたのも榎本牧師だった。教会の2階に同居することになった。
榎本保郎牧師との出会いから牧師へ
キリスト教は嫌いだったが、地域の人から陰口をたたかれながらも、保育園を作り、子どもと母親のために働く榎本牧師の姿を見ているうちに、心惹かれていったという。
「キリスト教よりも榎本牧師の人に仕える姿、奉仕の姿に胸を打たれた。儲かるわけでもないのに、報われないことを自分を犠牲にしてまでやっている姿を見て、これがキリスト教の力なのだろうかと思った」と後宮氏は言う。
生きる根拠を求めて求道し、キリスト教を学び、榎本牧師から「おまえ、洗礼を受けよ」と言われ、W・Q・マックナイト宣教師から洗礼を受けた。さらに、「自分の妹のことで言いにくいんやけど、妹の松代はもらった給料を全部献金するような信仰深いやつや。何も持っていくものはあらへんが、信仰だけは持っとる。結婚する気はないか」と言われ、榎本牧師の妹である松代さんと見合い結婚した。
52年に海上警備隊が創設され、誘いもあったが断った。その後、軍人のOB組織である戦友会にも一度も行かなかったという。
独学で学び、60年に日本基督教団の補教師に合格。榎本牧師の後を受け継ぎ、世光教会の担任教師となった。京都の農村は檀家(だんか)制度が強く、また休みなく農作業をする農家が多く、日曜礼拝もままならない中、農村伝道を試行錯誤した。
78年から10年間、日本基督教団総会議議長を務め、在任中の84年には戦中のホーリネス弾圧事件について日本基督教団として謝罪した。
その後は、重度の障がい者のための作業所「ベテスダの家」(83年)、高齢者福祉施設「ピスガ甲西」(95年)を設立するなど、障がい者や高齢者のための施設が社会的に認知されていない早くから、行政を説得して、教会として福祉事業を行ってきた。
榎本保郎牧師の「仕える」姿に見た「キリストの平和」
後宮氏は言う。
「私はクリスチャンだから、聖書にある『キリストの平和』をやることが、私の使命だと思っています。平和は口で言うだけでは実現しない。だから、私は今起きているデモにも一線を画したいと思う。
軍人を辞めたとき、勝者として裁く米国の宗教、キリスト教が嫌いだった。でも、榎本牧師の『人に仕える』『奉仕する』姿を見て、洗礼を受けることになりました。
『キリストの平和』とは、地上にあっては寄留者として、他者に仕える者のことだと思う。世界の全ての民は、キリストによって赦(ゆる)されて、この世界で生活している。そのために、教会で礼拝を守ることと並行して、この世で小さくされている障がいのある人や高齢者のための福祉事業をしてきました。また教団議長として、日本基督教団の組織の中でさまざまな紛争を見る中で、『キリストの平和』を考えさせられてきました。
いつも思い出すその原点は、戦争から帰り、生きる希望を失っていたときに出会った榎本牧師の姿に見た、人に仕える、奉仕する『キリストの平和』なのです」