終戦を迎えて
――終戦の日のことは覚えていますか。
皆で玉音放送を聞いて、泣きました。やはり私も士官学校の学生だったので、日本軍が負けるはずがないと思っていましたから、負けたと聞いたときは悔しかったですね。
――終戦後はどうなさっていたのですか。
22歳まで田舎で農家の手伝いをしていました。しかし、いつまでも田舎にいるわけにはいかないと、姉を頼って上京し、慶應義塾大学に入学しました。卒業する頃には27歳でしたね。その後は、都内の会社に就職して、70歳過ぎまでその会社でお世話になりました。その間に私も結婚し、1男1女を授かりました。
渡辺和子さんとの出会い
――渡辺さんと初めてお会いになったのはいつ頃ですか。
1986年の7月12日でした。7月12日は、兄貴を含む反乱軍が処刑された日で、ちょうど50年目の追悼式を元麻布の賢崇寺(東京都港区)で行いました。
――優さんが手を下した相手が誰だったかというのは、当然知っていたわけですね。
それはもう小さい時から、兄が関わったお2人(斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監)のことはよく知っていました。
――追悼式の当日、渡辺さんとどういった形で会話をされたのですか。
当日、私は受付をしていました。そこへシスターがお1人でいらっしゃいました。私は会場までご案内させていただいたのですが、自分の名前を言うことなく、いったん受付に戻りました。さすがに「安田です」とは名乗れませんでしたね。
――いつごあいさつされたのですか。
法要がすんで墓参りに行った時ですね。ちょうど、私と同じく渡辺総監を襲撃した高橋太郎の弟さんが一緒だったので、2人で声を掛けさせていただきました。シスターが反乱軍の墓に手を合わせてくださって、振り返られた時に、「私は安田です。安田優の弟です。私たちが先に渡辺(陸軍)大将のお墓にお参りさせていただかなければならないのに、申し訳ない」と言って、高橋さんと2人、涙を流してシスターにごあいさつさせていただきました。
――その時のシスターの様子は?
特に顔色も変えず、怒りも驚きもせず、私たちのあいさつを受け入れてくださいました。渡辺大将のお墓の場所を伺ったら、「あなたがたが墓参りをしてくださったら、父もきっと喜ぶでしょう」と話してくださいました。
――お墓参りには行かれたのですか。
その後、すぐに高橋さんとお墓参りをさせていただきました。高橋さんはそれ以降、反乱軍の法要には出席されませんでした。
――それからシスターとはどのような交流があったのですか。
その後、すぐにでもお手紙を書きたかったのですが、どうしてシスターは自分の父親を殺した犯人の墓に参ることができたのだろう、どういった心境だったのだろうと思うと、何から書き始めてよいか分からず、そのまま月日がたちました。しかし、その間、シスターの書かれた本を読んだり、聖書を読んだりしながら、その答えを探していました。
――岡山にも行かれたのですか。
はい。お手紙を出したのち、シスターが学長を引退されるまで、毎年、岡山には伺っていました。引退されてから、しばらく吉祥寺の修道院(ナミュールノートルダム修道女会東京修道院)にいらっしゃったので、吉祥寺にも何度も行きました。
――事件のことを話すことはあったのですか。
一度もなかったですね。わざと避けていたわけではないですが・・・。なんとなく・・ですね。
受洗のこと
――シスターとの交流がきっかけで安田さんは洗礼を受けたのですか。
そうですね。1991年に受洗しました。シスターと話をしている中で、どうして自分の父親を殺した犯人の弟である私を受け入れることができるのだろうと、聖書を読み始めたのがきっかけでした。
――それから教会へ行かれたのですか。
そうです。ひとりで聖書を読み進めていたのですが、なかなか難しくて、クリスチャンの友人に勧められて教会へ行きました。シスターも喜んでくださいましたね。受洗した時にはロザリオを贈ってくださいました。
――シスターはどうして安田さんを受け入れてくださったのか、ご自身もクリスチャンになって分かったことはありますか。
それは「赦すこと」ですね。キリストの教えを生涯かけて実行されたと思います。もし私が逆の立場だったら・・・、一生相手を恨み続けると思います。シスターはご自身の行いによって、キリストの教えを私に示してくださいました。「説教」ではなく「行い」なんですね。私も「実行」できる人間になりたいです。キリストの教えの中で一番難しいのが「赦し」ではないでしょうか。頭では分かっていても、なかなか人を赦すことってできませんね。
――シスターとの交流は長年にわたってとても深いものだったと伺っています。
そうですね。私にとっては貴重な時間でもあり、大切な方でした。ガンを患っていらっしゃることも全く知らなかったものですから、訃報を受けた時は、まさか・・・といった感じでした。最後にお会いしたのは2015年7月でしたが、その4カ月前の3月にお会いした時には、私と妻が両手を引いて差し上げましたから、少し体調が悪いのかなと思っていました。しかし、そんな大病をしていらっしゃるなんて、一言もおっしゃっていなかったので、知らせを受けた時には、本当にびっくりしました。
――最後のお手紙はいつ頃?
昨年12月17日の消印がついたクリスマスカードが最後ですね。
優さんに対して今思うこと
――今、月日が経って、シスターも天に帰られて、お兄さんに対して思うことはありますか。
兄に対して恨みがないわけではありません。兄があんなことさえしなければ、私はこんなに苦しまずにすんだのに、こんなに後ろめたい気持ちになることもなかったのにと思う半面、いろいろなものに操られて、断ろうにも断り切れなかったであろう状況を考えると、兄に対して不憫に思う気持ちもあります。しかし、憎んでいるわけではありません。
インタビューの後、リビングに飾ってある立派な書を見せてくれた。渡辺さんから贈られた渡辺錠太郎総監の書だという。渡辺総監の書は少なく、そのほとんどは靖国神社にあるというが、貴重な1枚を渡辺さんは安田さんに託したのだ。
安田さんは兄、優さんの資料を集めて、1冊の本にまとめている。そこには、優さんが家族を思い、士官学校や獄中でつづった手紙や短歌も収められている。驚くことに、優さんは処刑される数十分前まで、ペンを取り、思いをつづっていた。
今年も2月26日がやって来た。安田さんは毎年、この日が近付くと、どこか心が騒ぎ、神に祈りをささげるのだという。