12日に行われた渡辺和子さんの学園葬で、ひときわ深々と頭を下げて献花する男性の姿があった。
安田善三郎さん(91)。1936年に起きた2・26事件で、渡辺さんの父親、当時の陸軍教育総監であった渡辺錠太郎氏の邸宅に侵入し、殺害したとされる青年将校の1人、安田優(ゆたか)少尉を兄に持つ。
善三郎さんは、後に渡辺さんと出会って交流を重ね、自身も信仰に導かれた。この学園葬にも、洗礼時に渡辺さんから贈られたというロザリオを胸ポケットに忍ばせて参列したという。
安田さんに、兄の優さん、事件後のことなどをインタビューした。
優さんとの思い出
――お兄様と善三郎さんとはおいくつ違いですか。
13歳違いました。うちは6男4女の10人きょうだいで、優は次男、私は6男ですから、私が生まれたときにはすでに兄は家を出て旧制中学校に通っていました。そのため、兄に会うのは夏休みや冬休みといった本当に短い間だけでした。
――どんなお兄様でしたか。
優しくしてもらったのは覚えていますね。帰ってくれば、よく遊んでくれたような記憶はあります。とにかく親孝行な兄でした。親を心配させたことは1度もないほど。私は両親から「優を見習いなさい」と言われて育ちました。ですから、幼い時から優兄貴のことは尊敬していました。
――2・26事件があった日は、善三郎さんはおいくつだったのですか。
10歳くらいでしたね。小学校3年生でした。兄貴は誕生日直後だったので、24歳になっていました。
1936年2月26日のこと
――事件当日のことは何か覚えていますか。
はい、明確に覚えています。私の田舎は熊本県天草市ですが、雪が降る寒い日でした。事件は早朝に起きましたが、当時、テレビもないし、ラジオも村に何台かあるだけだったので、そんな事件が起きているとは知らず、いつものように学校に行きました。すると、ラジオのある家の子が、「何だか東京で物騒な事件が起きたらしい」と言っていたのを覚えています。ただ、この時は何が起きたか詳しいことは分かりませんでしたし、まさか自分の兄が関わっているとは思いもしませんでした。
――知らせはどのように受けたのですか。
その日の夕方、東京にいる兄か姉から電報が来たのですが、それには「皆、無事。安心しろ」としか書いてありませんでした。夕方には、田舎にもその日の朝刊が届くので、それで事件のことを知りました。しかし、兄が関与していたことはまだ知らなかったのです。両親は「何があったんだろうか。まさか優に何かあったのでは」と悪い予感のようなものがあったようです。
――その日の朝刊には詳細はなかったのですね。
国の偉い人が殺されたくらいしか分かりませんでした。私たちが知ったのは、それから3日たった29日でした。この年はうるう年でしたから、2月も29日まであったのです。その日の朝刊が配達されて、それを見ると、「さらに5人の将校が免官」とあり、その中に安田優の名前があったわけです。
――その時のご両親の様子は?
私は「免官」の意味も分からず、「何が起きたんだろう」と思っていましたが、父は真っ青な顔をして、「大変なことになった。優が事件を起こしたメンバーに入ってる」と泣き崩れていました。家族はみんな涙を流して、それはもう子ども心に「本当に大変なことになったんだ」と思いました。特に母は、「どうしてあんなに優しくて親孝行な子がこんな事件を起こしたんだろう」と言って涙に暮れていました。
事件後の苦しみ
士官学校に入学後、また事件後、拘置されてから優さんが書いたものが多く残されている。その中には、親孝行であった優さんの一面をうかがえる句があった。
浅雪積る冬の日に、我が母上と薪かりし、若きまぼろし浮びけり。
許しませ実に許しませ父母よ 敢えて犯しし不孝の罪を 親思う心にまさればなり。
――お兄様もお母さまに会いたかったのでしょうね。お母さまも優さんに会いたかったでしょう。
そうですね。母は本当につらそうでした。両親の誇りでしたからね、兄貴は。私の故郷は田舎なので、村から士官学校に行く人なんて誰もいなかった。みんな貧しい農家ですからね。うちも貧しい農家でしたが、教育だけは両親が受けさせてくれました。兄貴は、村から初めての士官学校生でした。
しかし一転、村中から後ろ指をさされる存在になってしまったのです。「安田さんの家は教育熱心だと思ったけど、何をしてるんだ。教育なんて何になる。結局は殺人者を家から出すことになったではないか」と言われて、両親もそうとう悔しい思いをしたと思います。
――善三郎さんは子ども心にどんなふうに感じましたか。
それは、苦しいし、悲しいし、つらいし・・・。どんな言葉で言えばよいのでしょう。まだ幼い子どもですから、近所の子どもとけんかをすると、すぐに「お前の兄貴は人殺しだ」と言っていじめられました。今思い出しても悔しいのは、ある日、先生が放課後、クラス全員を学校の校庭で走らせたのです。先生から「よし」と言われた子どもから列を抜けて走るのをやめてよかったのです。1人、また1人と抜けていっているのに、いっこうに私の名前は呼ばれない。真面目に走っているし、それほど遅くもない。なぜだろうと思いました。とうとう最後の1人になってしまって、それでも終わらせてくれない。子ども心に「兄貴のせいではないか」と思いました。本当のところは分かりませんが・・・。あの時から、何かあると、兄貴のことをひっかけて考えるようになってしまいました。
――お兄様のお葬式はどんな様子でしたか。
月のきれいな晩でしたね。処刑されたのは7月でしたが、葬式は10月に入ってからでした。親戚と近所のほんの数人で送る、ひっそりとしたものでした。それでも、そこに特高警察が来ていたのを覚えています。親戚の中には、「縁を切ってくれ。今後、うちとの付き合いはしないでくれ」なんて言った家もありました。寂しかったですね。両親も傷付いたでしょうね。お墓は今も天草にあります。
善三郎さんの歩み
――善三郎さんはその後、どんな人生を歩まれたのですか。
旧制中学を出た後、時代はもう戦争に突入していましたから、卒業後は徴兵検査が待っています。あの頃の学生、特に男の子はみんな、「俺たちは遅かれ早かれ死ぬんだ」と思っていましたから、徴兵検査を受けて2等兵で戦争に行って死ぬより、士官学校へ行って将校として死んだ方が両親にたくさんお金を残せるだろうと思って、士官学校を受験しました。しかし、それこそ兄貴のことがあるので、どうせ不合格だろうと内心思っていましたが、運よく合格してしまったのです。
――お兄様と同じ道を歩まれたのですね。
1945年2月の入学でしたから、その半年後に終戦でした。入学したときに中隊長に呼ばれて、「貴様の兄貴は国士でもなければ国賊でもない。兄貴のことは忘れて、しっかり頑張れ」と声を掛けてくださったのです。世間に負い目を感じていた私にとって、これはとても嬉しい言葉でした。今でも忘れていません。