お金の話で申し訳ない。「神学書」コーナーの対極にあるようなテーマの本を紹介することをお許し願いたい。しかし、実際に教会を運営していく上で「お金の問題」は決して軽く扱えない。しかし一方で、どうしても宗教と下世話なお金の話は相いれない。
特にキリスト教は、清貧の思想が中世以来がっちりとキリスト教徒の心をつかんでしまっている。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表し、経済活動と宗教性は決して相反するものではないことを示したにもかかわらず、現代に至るまでお金の話はキリスト教会では半ばタブー視されている。特に保守的なキリスト教界ではその傾向が強い。
本書『帳簿の世界史』は、そんなお金の話の底流に「キリスト教」が見え隠れする。「帳簿」という概念でキリスト教世界、つまりヨーロッパ世界(加えてアメリカ合衆国)の2千年間が描写されている。
世界史や日本史を専門としていなくても、例えば「ルネサンス」や「フランス革命」、そして「米国独立戦争」のことは聞いたことがあるだろう。本書はこれらの出来事が引き起こされた要因の一つに、「収支報告(帳簿)の正確さの有無」があると訴える。
序章「ルイ十六世はなぜ断頭台へ送られたのか」という刺激的なタイトルに始まり、ヨーロッパ世界に君臨した各国(スペイン、オランダ、フランス、英国)の隆盛を、「帳簿」という視点から面白く描いている。
面白かったのは、中世からルネサンスに至る過程で、商人たちは会計の必要性を強く感じつつも、お金を扱う仕事に対して信仰的な劣等感を抱いていた、というくだりである。彼らは自分の犯した罪を「支出」、社会や他者への善行を「収入」と捉え、会計帳簿同様に「心の帳簿」を神の前につけていたのである。(54~56ページ)
こういった「収支発想」が免罪符を生み出したのだ、と筆者は喝破(かっぱ)している。
大方のキリスト教徒にとって、善行と悔悛に加えてキリストの血の代償によって罪を帳消しにでき、死後に煉獄であまり苦しまずに済むという教えは、会計の概念と接した初めての経験だったと言えるだろう。心の会計の借方と貸方と差引残高は、救済を得るために欠かせない。(57ページ)
もし本当にそうだとすると、後に引き起こされる「宗教改革」も神学的な相違や支配体制の質的相違のみに帰せられるものではなく、会計概念の誤った浸透が改革の土壌を生み出したとも捉えることができるだろう。教皇に代表されるカトリック教会一極集中支配体制から、国家という概念が生み出され、おのおのの立場が確立する過程において、富の優劣が生まれてくることは必然である。そうであるならなおのこと、「帳簿」作成の意義をどれだけ国王や貴族たちが理解していたかが問われることになる。本書はこの一点を鋭く突いているといえよう。
「心の帳簿」とは、本来は当時の信仰者たちの誠実さを表す言葉であった。しかし同時に、国王や貴族たちが行ってきた一連の不正に対し、「自分の帳簿は神にのみ開示すればよい」という言い訳を許容する考え方としても用いられた。彼らは自身の資産を公開せず、収支報告を粉飾したり二重帳簿を作成したりすることが日常茶飯事であった。(3~5章参照)
全13章から成る本書から分かることは、「会計が文化の中に組み込まれていた社会は繁栄する」(334ページ)ということ。これは言い換えるなら、会計報告や収支決算をないがしろにする組織や国家は、いっときは良いように見えても、必ず弱体化するということである。
これは栄枯盛衰を繰り返す現代社会における会社や組織のみならず、キリスト教界においても同様である。だが、このことになかなか牧師や教会関係者は目を開こうとしないように思われる。
原則として「宗教法人」である以上、会計報告を教会員に開示する義務がある。しかし、これをきちんとしていない教会が多くあると聞く。確かに開拓教会(少人数で、法人資格を取得しないで開始したばかりの集団)では、このような手続きは不要であろう。しかし、人数が増えてくるに従って予算や収支結果を公開することは、本書を読むまでもなく必要なことだと分かるはずだ。
2千年間にわたり、西洋社会を良い意味でも悪い意味でも支配し、統御してきた「キリスト教」が、時としてこのような対外的な視点(帳簿作成の有無)に晒されることは必要なことだろう。教会の役員や牧師たちがこぞって本書を読み、いろいろとディスカッションする機会があるなら、本書は大いに役立つ一冊だといえるだろう。
巻末に「帳簿の日本史」が加えられているが、こちらも大変参考になったことを付け加えておきたい。
■ ジェイコブ・ソール著『帳簿の世界史』(文藝春秋、2015年)
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