終戦後40年(1985年)を迎えた今なお、忘れることのできない恐ろしい原爆が投下されたのは昭和20年8月6日午前8時15分のことです。
ピカーと強い光線と同時に、家はズタズタにつぶれ、真っ暗になりました。一瞬直撃を受けたのかと思いました。
間もなくボヤーっと明るくなりました。気がつくと頭がシビレ、血がたらたら流れます。不思議にも自分の上半身が座ったまま、つぶれた屋根から浮上したように出ていました。そのとき、「ああ、助かった」と気がつき、そのまま「神様、感謝いたします」とただ祈るばかり、「自分が助かれば何とかなる」と感謝しました。その祈りしか出ません。それが1、2分くらいだったでしょうか。それで落ちつきました。
そのとき左右の土の下から「お母さん、苦しいよう、苦しいよう」と、かすかな子どもの声がします。「今助けてやるから」と言いながら左右の土を掘りました。白いブラウスを着て赤ん坊の守りをしていた小学校4年の子の背中が見え、抱き起こしました。その子が赤ん坊の上にかぶさるようになっていたので、赤ん坊をすぐに抱き、乳を呑(の)ませたので息を吹き返して助かりました。
寛二は3歳でしたが、自力で私の目の前に立ち上がって出てきました。見れば、目の下から首、腕までガラスの破片が刺さり、ことに目の下の切り口が大きく、血がタラタラ出ていましたが、手当もできません。
赤ん坊を抱き、両手で子どもの手をつなぎ、「さあ、どこへ逃げようか」と外の通路に出ますと、前の道はけが人ややけどの人が強い光を受けて背中の皮のない真っ赤な姿になって夢中で走って行きます。私たちは幸い、家の中で光を受けたので、やけどはまぬかれました。
少し行くと、広い道路に出ました。宇品方面はわりあい被害が少ないように思いましたし、当時大きな共済会病院がありましたから、とにかく子どもの顔の手当を早く受けなければと歩き出したところ、どこからか爆風で飛んできた買物かごが落ちておりました。その中に白い布と風呂敷が1枚入っていたので、その布で赤ん坊を負い、風呂敷を寛二に着せて歩きました。少し行くと、荒物屋さんの店の品が道路にちらばっていました。そこで草履をもらって皆で履き、はだしの足が助かりました。とぼとぼ歩く途中、あちこちの家の下敷きになって助けを求める人々の声を聞きながら、可哀想でも、どうしてあげることもできず、涙を呑んで通りすぎていきました。
病院に着いた時には早や夕方で、大勢のけが人ややけどの人が行列で手当を待っています。広い病院の庭には兵隊さんがけが人を次々に運んで来ては、炎天下の庭に下ろします。見るに耐えない、人相もわからないほど腫れ上がり、着ていた服は焼けて裸。男女の区別もわからない姿。
強い光線を受けているので、あちらでもこちらでも、「水ちょうだい」「水ちょうだい」と叫ぶ声。実に言葉に絶する苦しみの声。私は軽いけがでしたから、水をくんでは渡り歩いて一口ずつ呑ませてあげます。そのうちに兵隊さんが、「やけどに水を呑ませてはいけない」と怒鳴って止めに来ましたが、今、目の前で息を引き取る者の苦しみを見ながら、私は「一口でも」と思って、呑ませ続けました。
朝、中学校に出かけたままの長男のことが気になって、「この中に荒木済(わたる)はいないか」と叫びながら、あちこちの人に水を呑ませていたところ、人相もわからない子どもが、「おばさん、荒木君1人だけがクラスで助かった」と教えてくれました。「どこにいても、助かってさえいれば、どこかで逢える」と思い、また一生懸命次々と水をくんでは呑ませてあげました。
ようやく子どもの手当を受けたのは暗くなってからで、その時はまだ空襲、空襲の騒ぎだったため、防空壕に出たり入ったりしながら、そこで一夜を明かしました。市は一晩中、火の海と化していました。
翌朝、とにかく子どもの手を引いて、焼土となった我が家へ帰る途中、長男と逢い、昨夜は学校の寄宿舎に泊めてもらったと、とぼとぼと歩いていたところでした。跡形もない家へ帰り、焼け跡のとたん板を何枚か拾い集めて、そこでいったん腰を下ろしました。
朝出たままの母の行方がわからず、案じていたところ、近所の方が教えてくださったので、そこに迎えに行きますと、変わりはてた姿。顔半分と腕はやけど、胸も打ったそうで苦しそう。すぐ近くに防空壕があったので、そこで寝かして手当をしなければと思いましても、薬はなし。「キュウリの汁がよい」と言うので、それをしぼって、やけどの手当をしました。
そのうち、当時の国民学校が野戦病院になり、そこへすぐ入院させていただき、妹が看護についていました。4日ほど、そのとたん板の上で野宿をしましたが、これでは子どもも皆、被爆者ですから、病気になっては困ると考え、以前から子どもと老人を疎開させようと思って山口県の岩国に一室を借りる約束をした家がありましたので、そちらに引き揚げました。そこで8月15日の敗戦を知りました。
長男は学校の先生から「日本はどこまでも勝利を得るんだ」と聞かされ、それを信じきっていたので、「勝つまでは頑張ろう」と張り切っていただけにショックは大きかったようです。それから間もなく発熱し、次々と原爆病が出て白血球が少なくなり、とうとう8月24日に岩国海軍病院に入院することになり、次第に病状は悪くなり、一晩中うわ言を言いながら、手当のしようもなく、8月31日午前6時15分に召されてしまいました。
広島の野戦病院に入院中の母も、それより4日ほど前の8月26日に召されておりました。それから間もなく、内地の部隊にいた夫が除隊になって帰りましたが、母の顔も子どもの顔も見ることのできないありさまでした。夫はすぐに広島に住居を探すため出掛け、幸いに比治山の裏側に焼け残った割合に広い家があり、そこを借りて修理をし、段原山崎町というところへ再び帰ることができました。10月中旬でした。
出征していた弟たちも次々と無事に帰り、一時は4世帯がしばらく同居しました。そのうちに疎開していた人たちも焼土と化した市内に帰ってきましたが、行き交う人の姿は、本当に一時は皆、希望を失った夢遊病者のように見えてなりませんでした。
信者の方がだんだん帰ってきたので、この時こそ何とか福音を伝えなければと示され、2、3人の同信の友と祈り会を始めました。幸い私どもの家に部屋があったので、そこで本当に一生懸命に祈りました。すると神様は働いてくださり、だんだんと大勢になり、元広島ホーリネス教会で牧会しておられた先生が岡山で伝道を開始しておられ、その先生が月1回、出張しておいでくださるようになりました。信者さんもたいへん恵まれて、東京本部から神学生を送っていただき、私たちと同居して一生懸命伝道に力を入れてくださり、2階2間がいっぱいになるほどに祝されました。それから皆さんと相談して、平和教会の看板を出すようになりました。
その間に私たちは夫の就職のために上京することになりました。本部から植竹利侑(うえたけ・としゆき)先生を送っていただき、先生と信者さんに後のことをお願いして、昭和28年1月4日に現在の東京にまいりました。植竹先生(現在、単立広島キリスト教会名誉牧師)は今も広島で盛んに伝道しておられます。
終戦40年目を迎えた今も、原爆病で苦しんでいる人は多くおります。私もその1人で、後遺症を受けておりますが、軽いですから、80歳になりました。今日こうした思い出を書くことのできる幸いを感謝しております。全世界に再びこのようなことの起こらないよう、平和でありますよう、祈り続けます。
「わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや わがたすけは天地(あめつち)をつくりたまへるヱホバよりきたる」(詩篇121:1~2、文語訳)とありますが、若き日に神様の哀れみにより救いにあずかることのできましし幸いを感謝してやみません。アーメン
1985年1月27日
(荒木キクさんは1993年12月30日、88歳で召天した)