「アガペー」はしばしば、「愛」の最高の形とされてきました。しかし、その前提は正しいのでしょうか。それは聖書をよく吟味してきた結果なのでしょうか。「アガペー」の理解だけでは、私たちが本来あるべき姿で神様とつながることが困難になり得ます。そして「神の愛」を厳正なもの、躍動感に乏しいもの、喜びを欠くものと捉えがちになり得るのです。
このような狭い視点では、私たちが他者に示す愛情表現にも影響を及ぼすことになるでしょう。本連載では、これまで教えられることのなかった別次元――「アガペー」以上に重要で高次の資質――の「神の愛」を探っていきたいと思います。
肉体的関係、感情的関係、契約的関係のいずれにせよ、「関係」というものを考える際に、「アガペー」の格付け以上に大きな愛の形は存在するのでしょうか。
雅歌8章6節に見られる答え
封印のように、私をあなたの胸に、
封印のように、あなたの腕に押印してください。
愛(アハバーH160)は死のように強く(アズH5794)、
ねたみ(クィナーH7068/ゼーロスH2205)はよみのように激しいからです。
その炎は火の炎、すさまじい(ヤーH3050)炎(シャルヘベトH7957)です。(雅歌8章6節)
この聖句の中に「完全な神の愛」を表す「アハバー」(H160)という単語がありますが、これは次の2つの異なる要素から成り立っています。
1. 意志的愛着(カシャク/アガペー)―意志、選択、知性的献身に基づいた愛
2. 感情的愛着(ドード)―沸き立つような激情、揺るぎない情愛、焼き尽くす火のような愛、永続的な愛着
これら2つの側面を知ることができれば、神の愛の全体像をより深く理解することができるでしょう。
意志的愛着と感情的愛着の区別
1. 意志的愛着―「カシャク」(アガペーのような愛)
雅歌8章6節に「死のように強く(アズH5794)」とあるのは、断ち切ることのできない永久的な――「アガペー」の本質と合致した――愛を示しています。「愛」の持つこのような側面は「カシャク」(H2836)と呼ばれます。それは、非感情的な意志的愛着――意志と選択に基づいた決断――を表し、次の聖句にも見られます。
主があなたがたを慕い(カシャクH2836)、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。(申命記7章7節)
「カシャク」は、意志(決心)と知性(知性的思慕)による愛で、「アガペー」の性質を内包しています。
2. 感情的愛着―「ドード」(神の愛の炎)
雅歌8章6節の「アハバー」の2つ目の要素は「まさに神の炎」(シャルヘベト・ヤー)と表現されています。これが、神の愛の感情的で焼き尽くすような側面を表す「ドード」(H1730)と呼ばれるものです。
「ドード」は全てを焼き尽くす火のような神の愛――深く親密な関係を結び、固守し、維持することのできる愛――です。
「ドード」(H1730)という言葉の成り立ちは次の通りです。
・沸き立つような、焼き尽くすような火(神の愛の激情)
・継続的な固守(ダバクH1692)―永続的で関係的な愛着
・保全的な熱情(クィナーH7068/ゼーロスH2205)―忠誠を保証し、愛着を保護する要素
「ドード」は神の甘美な愛のことで、この世の恋愛とは異なっています。しかし、残念なことに、教会は、この愛を世俗的な恋愛と区別して認識することができていないようです。
完全な神の愛の図式:「アハバー」=「ドード」+「カシャク」
健全な神の愛(アハバーH160)とは、この式のように成り立っています。
・ドード(H1730)―感情的、情熱的、焼き尽くすような神の愛
・カシャク(H2836)―決断と選択に根ざした意志的、知性的な愛
どちらも人間関係を維持するのに不可欠なものですが、その機能は異なっています。「ドード」は肉体的、感情的、関係的な愛着に深く結び付いていますが、「カシャク」(アガペー)は意志と選択に基づいています。
「ダバク」(固守的愛着)対「カバル」(断片的愛着)
「ドード」(感情的な愛)が特異である点は、「ダバク」(H1692)と「カバル」(H2266)の違いを見れば明らかです。
1.「ダバク」(H1692)―固守的、契約的な愛着
「ダバク」は、相互的であってもそうでなくても、持続可能で既存の安定した絆のことを指します。
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダバクH1692)、ふたりは一体となるのである。(創世記2章24節)
「ダバク」は、貞節という神の律法に沿った本物の耐久的な愛着を意味しています。
2.「カバル」(H2266)―断片的、表面的な愛着
一方、「カバル」は、真の永続性が伴わない機械的か機能的な絆を指します。「カバル」は「全面的な献身なしに結ぶこと」と訳することができるでしょう。それは、生温い関係か不安定な魂の結び付きになり得るものです。「ダバク」とは異なり、全面的な献身や相互的な専心は求められません。
「カバル」から連想されるのは以下の概念です。
・表面的な参与(メトコスG3353)
・不安的で非永続的な絆(例えば、律法から外れた、情熱に基づいた愛着など)
情熱に基づいた愛着から生じた執着のようなものの例は、コリント人への手紙第一に書かれています。
それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる(コッラオーG2853)者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(コリント人への手紙第一6章16節)
このように、「ドード」は「ダバク」の上に建てられるときに強く神聖な絆を形成しますが、情熱に基づく愛着は不安定で一時的な執着(カバル)となってしまうことが多いです。
「ドード」対「情熱」:その決定的な区別
よくある間違いは、「ドード」を「情熱」と同等に捉えてしまうことです。しかし、両者は根本的に異なります。
「ドード」(H1730)―神の炎 | 情熱 |
---|---|
安定した、焼き尽くすような、永続的な | 激しいが一過性である |
感情を律し、愛を維持する | 感情が乱高下する |
感情だけでなく霊において見いだされる | 主に感情によって突き動かされる |
「熱情」(クィナーH7068)によって保全される | 保全的な熱情に欠けるため不安定になる |
「ドード」は「情熱」ではなく、焼き尽くす火のようでありながら、感情を律することのできる安定した愛です。「情熱」は、激しくても持続(可能)性に欠けるので、愛の基盤とはなり得ません。
「熱情」(クィナー)―「ドード」の守護的役割
「ドード」の鍵となる要素の一つは「熱情」(クィナーH7068/ゼーロスG2205)です。「熱情」は「固守」(ダバクH1692)を保全する役割を果たし、関係的で神聖な愛における「忠誠」「貞節」「永続」を保証するものです。
「熱情」がなくては、関係性は外的影響に対して脆弱(ぜいじゃく)になってしまいます。「熱情」は、時を経ても熱烈さが衰えたり失われたりすることなく、「ドード」を燃やし続ける原動力となります。
「カシャク」対「ダバク」:七十人訳聖書における大きな違い
「カシャク」―知性と心からの熱望(意志的愛着)
1. 申命記7章7節
・ヘブライ語聖書:「主は、主の愛(カシャクH2836)をあなたに据えることも、あなたを選ぶこともなかった…」
・七十人訳聖書:この節のヘブライ語「カシャク」(H2836)は「プロセコー」(G4337)というギリシャ語に訳されています。意味は「~に焦点を当てる、~に注目する」です。
・解釈:イスラエルを愛するという神の決断が見られます。それは、意志から出た行動であって、感情的または肉体的な愛着ではありません。
2. 詩篇91篇14節
・ヘブライ語聖書:「彼が彼の愛(カシャクH2836)を私に据えたから…」
・七十人訳聖書: この節のヘブライ語「カシャク」は「エルピゾー」(G1679)というギリシャ語に訳されています。その意味は「希望する」「~を信頼する」です。聖書によれば、目に見える希望はもはや希望ではありません――「希望」という言葉は、今は手にしていないもの、現実には成就していないものを表す場合に使われることが多いです。
・解釈:感情的または肉体的な絆よりも精神的な信頼が強調されています。
「ダバク」―肉体的、感情的な強い愛着
1. 創世記2章24節
・ヘブライ語聖書:「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ(ダバク)…」
・七十人訳聖書:「結ばれる」を表すヘブライ語は「コッラオー」(G2853)というギリシャ語に訳されています。その意味は「接着する」「密着する」「共に結ぶ」です。
2. ルツ記1章14節
・ヘブライ語:「…ルツは彼女にすがりついた(ダバク)」
・七十人訳聖書:「すがりついた」の部分は「コッラオー」(G2853)というギリシャ語に訳されています。その意味は「密着する」「しがみつく」です。
「カシャク」(H2836)―意志的な愛 | 「ダバク」(H1692)―感情的愛着 |
---|---|
「アガパオ―」(愛する)、「プロセコー」(~に注目する)、「エルピゾー」(~を希望する)と訳されることが多い | 「コッラオー」(すがりつく、接着する、貼り付く)と訳される |
「愛情」「熱望」「意志による専心」を表す | 現実的経験を伴う「結合」を表す |
具体例:選択という行動としての神の愛(申命記7章7節) | 具体例:結婚という肉体的関係的な絆(創世記2章24節) |
この表が示しているのは、「カシャク」が意志と決断(知性的、意志的愛着)に基づいているのに対して、「ダバク」は現実の関係的経験(肉体的、感情的愛着)に基づいているということです。
以上から、両者の意味の大きな違いは次の通りとなります。
・「カシャク」は「あるものに愛を据えること」(心または知性による決断)のことです。
・「ダバク」は「現実的愛着」「すがりつくこと」「くくりつけるような結合」のことです。
暗示されていること
1. 感情的愛着(例:固守―「ダバク」または「コッラオー/プロスコッラオー」)
・既存のもの、現実にあるもの:感情的愛着は、しばしば既に経験され実践された絆を反映します。それは、単なる意図ではなく能動的なつながりです。
・より永続的なもの:感情的な絆は、より断ち切りがたい傾向があります。人の深い愛情や熱望、関係的経験に関わっているからです。
聖書の具体例を見ていきましょう。
・結婚(創世記2章24節)―「男は…その妻と結ばれ(ダバク/コッラオー)」
・ルツとナオミ(ルツ記1章14節)―「ルツはナオミにすがりついた(ダバク/コッラオー)」
・キリストと交わる信者たち(コリント人への手紙第一6章17節)―「主と交わる(コッラオー)者は、主と一つの霊になる」
・鍵となる思考:人が感情的な愛着を持つ時点で、絆は既に存在し、永続性と深い献身の感覚を伴います。
2. 知性的または意志的愛着(例:カシャク、プロセコー、アガパオー)
・まだ顕在化していない可能性:意志的愛着は知性または心による選択であるため、それが完全に行動として実現するまで据え置かれるものかもしれません。
・行動化されるまでは永続的とはいえない:経験というよりはむしろ意図に基づくものであるため、本物の愛着に発展しないうちは変化する可能性のあるものです。
このように、感情的愛着は、より現実的で耐久的である一方、意志的愛着は、完全に受容化され、行動化されないうちは、まだ潜在的な状態であるといえるのかもしれません。
結論:「ドード」がより高次の愛である理由
「ドード」について学ぶことなしに「アガペー」(カシャク)が最高の愛の形であると決めつけることは時期尚早でしょう。「ドード」は、全てを焼き尽くすほどの、断ち切ることのできない、熱情的な「神の愛」であるからです。
「ドード」は「神の愛の炎」つまり、結び付け、維持し、永続的な愛着で燃え上がるほどの愛です。神と、また、他の人々と豊かな関係を育むのが、まさにこの愛です。単なる意志的選択以上のものです。
次回は、感情的愛着と意志的愛着に関連するもう一つの条件について学びたいと思います。そして、愛を本物の「愛」たらしめる条件を定義したいと思います。私たちが使っている「愛」という言葉の本当の意味を学びましょう。
キリスト教会はこれまで、本来強調されるべきであったより高次の愛を無視し続けてきたのかもしれません。それは「アガペー」以上に高次の資質すら持った「愛」です。その愛は、神と私たちとの関係に閃光(せんこう)を放ち、神様との素晴らしい関係を味わうことを可能にし、神の花嫁としての「甘美」な関係へと発展させるものなのです。
その同じ愛が、信者の魂に「ドード」として現れ、「神聖」で甘美な愛を築く能力を与えてくれます。「ドード」に基づいた愛は、この世が渇望する恋愛に基づいた情熱とは異なります。この世の概念は、キリスト教会や神の御国にも深く入り込んで、私たちを幻滅させ、誤った方向に導き、神と人との間の、また、夫婦の間の真に「甘美」で躍動感にあふれた愛の関係へと発展させることを妨げているのかもしれません。
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