今回は、前回までに学んだことを復習しながら、神様がアダム(エバの夫)以前に創造なさったさまざまな種類の「人類」について考察していきたいと思います。
前回は「世代/時代」と訳されている単語(英語では generation)について解説しました。この言葉は「時の改新」または「家系の改新」を表します。言い換えれば、「共通の祖先の流れをくむ全ての人々」や「それらの人々が地の面(おもて)に暮らした年月の長さ」を意味します。このように聖書を読み解いていくと、「祖先」とは、ある「時代/世代」が改新されるごとに、それぞれの「時代/世代」で最初に創造された人を指していることが分かります。
3つのヘブライ語「アダム(H119)」「アダム(H120)」「アダム(H121)」
「祖先」とは、改新される各時代/世代の「プロートス」(第一)の「アダム」(H120)です。ですから、この世界の創造から現在に至るまでに、神様が幾度か「人類」を創造なさったとしたら、その数だけ、それぞれに改新される時代/世代の「アダム」(祖先たち)が存在したことになるのです。
また、神様がこの地を創造なさった際に創造された最初の「アダム」は、「アルケー」(原初)のアダムであり、他の「プロートス」(第一)のアダムたちと区別することができるでしょう。
従って、エバの夫であり、私たち人類の直接の祖先でもある「アダム」(H121)は、「アルケー」(原初)の「人間」(「アダム」H120/「アントローポス」G444)ではありません。前回まで学んできた通り、コリント人への手紙第一の15章45節からも、私たち人類の直接の祖先であるアダムは「アルケー」(原初)ではなく「プロートス」(第一)のアダムであることが分かります。エバの夫であったアダム以前にも、神様は別の「人類」を幾度か創造なさり、改新される「時代/世代」にそれぞれの「プロートス」のアダムが存在したと考えられます。
つまり、神様は、私たちの祖先である「アダム」(H121)よりも前に、別の「人類」を幾度か創造なさったと考えられるのです。(「アダム」(H119)については後ほど、解説します)。
また、「時代/世代」(G1074)と訳されている単語には「共通の祖先を持ち、同じような特徴や志向を持つ人種」という意味があります。つまり、聖書によれば、肌の色がどうか、また、どのような時代や地域(国々)に暮らしている人々であるかということは、「人種」を定義するものではないということです。神様による定義では、「人種」とは、ある特定の「時代/世代」に地上で暮らす人々の集団を表します。ですから、そのことを心に留めて、神様のご計画と目的が私たちの人生に成就することを願うことが大切です。神様は折に触れてさまざまな人々を私たちのもとに送ってくださいますが、私たちは、自分とは異なる人種だからと誤った判断をして、そのような人々を拒絶してはいないでしょうか。
多くの場合、私たちは、国籍や肌の色にとらわれるあまりに、自分とは異なると判断した人々と接する際に、いとも簡単に神のご計画に反することをしてしまいがちです。
クリスチャンであるのに、他国に住む肌の色の違うクリスチャンを助けるくらいなら、未信者の同胞を助けるという人々もいます。そのような信仰は「肉的」とは言えないでしょうか。聖書には「全ての人」に善を行うようにと書かれています。「全ての人」とは私たちの隣人のことです。「良きサマリア人」の話を思い出してください。「全ての人に善を行う」と書かれている聖書箇所には、もう一つ重要なことが書かれています。それは、「特に信仰の家族に」という部分です。
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6章10節)
聖書で「時代/世代」と訳されているこの言葉の時間的長さは通常、「アイオーン」(G165)よりも短い時間を表します。時間的には「アイオーン」の中の一部を表すと考えるとよいでしょう。
「アイオーン」は、絶え間ない「時」という途切れることのない長さを表します。つまり、この地が最初に造られた起源の「時」にまでさかのぼった時間です。この地は数十億年(「アイオーン」G165)も前の過去に創造され、未来にも同様に、数十億年という年月が流れていくことでしょう。
過去数十億年(アイオーン)の間に、神様は、私たち人類とは異なる種類の別の「人類」を幾度か創造し、その「時代/世代」が改新される数だけ「祖先」を新たに創造なさったと考えられます。
神様が私たちの祖先とは異なる別の「人類」を創造された証拠
パウロも「ゲネア/ドール」(時代)という単語を用いて、(私たちの祖先アダムには似ているが私たちとは異なる「人類」に属する)別の祖先たちについて言及しています。
それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。(エペソ人への手紙3章4節)
この奥義は、前の時代(G1074)には、今のように人(「アダム」H120/「アントローポス」G444)の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。(エペソ人への手紙3章5節)
エペソ人への手紙3章5節には「前の時代」と言及されています。それについては別の機会に解説したいと思います。現段階では「前の時代」という過去に神様が創造なさった、私たちとは別の「人類」が存在したということを認識するだけで十分です。
上の聖書箇所について幾つか見ていきたいと思います。
1.「キリストの奥義」
4節は、パウロが「キリストの奥義」について語った箇所を指しています。それは、この世界が創造された何十億年も前に隠されていた事柄つまり知識――世の基が創造される前、すなわち、何十億年も昔の「時」そのものが始まる前に、キリストが神の子羊としてほふられたことなどをはじめとした奥義――についてです。つまり、神様の創造のご計画は壮大で、私たちの祖先アダムを創造するだけにとどまらなかったのです。
2. 「アントローポス」(G444)の語彙(ごい)分析
(1)「アネール」(H435)
「男性(正しくは個々の男性):仲間、夫、男、旦那」
<注>ギリシャ語において「女性」は「ギュネー」(G1135)で表され、「アネール」の定義に「女性」は含まれない。(2)「オープス」(「オプタノマイ」(G3700)より)
「顔つき、見かけ」
以上から、「アントローポス」は「男の顔を持つ人」という意味であることが分かります。つまり、ギリシャ語の「アントローポス」(G444)は、人類の祖先であり男性でもあることを表しています。この言葉から、人類の祖先は男性であったと考えられるのです。
ヘブライ語の原語を見ていくと理解がさらに深まるでしょう。
ヘブライ語の「アダム」(H119)は「顔の血色」や「赤面する」「紅潮する」という意味です。つまり、「輝く/火花を発する」ことを意味します。「アダム」(H119)という単語は、人間の原型――神様によって幾度か創造された「人類」の「ひな型」――を想起させることでしょう。
「アダム」(H119)という単語は、人間が最初に創造されたときの姿を表す普遍的な型を示しているのです。「アダム」(H119)自体には男女の区別がありません(人の原型として男性も女性も表すことができます)。言い換えれば、「アダム」(H119)は、神様が創造なさったときの根源的な人間の状態を表すヘブライ語なのです。
「アダム」(H119)は、神様が創造なさった全ての異なる種類の「人類」の普遍的な型を表しています。ヘブライ語では、この「アダム」(H119)から「アダム」(H120)が派生しています。
このように、ヘブライ語の「アダム」(H119)は何十億年も前に神様によって創造されたあらゆる種類の「人類」――男性と女性――の原型を表す単語であると考えられます。「アダム」(H119)は、この世界が創造されて以来存在してきた、あらゆる「時代/世代」におけるあらゆる「人類」を表す総称と考えられるのです。
前回までに学んできた自動車工場の例に当てはめてみましょう。毎年異なる車種を製造すると、20年間で20車種が生産されますが、「アダム」(H119)は生産することを意図された自動車の「原型」であると考えるとよいでしょう。被造物つまり製造物に変えられるための原型を表す総称です。世界の創造の時から神様が創造なさってきたあらゆる種類の「人類」の総称であり原型であると考えられます。
ですから、このヘブライ語の「アダム」(H119)の意味から、神様が過去に創造なさったあらゆる種類の人類が持つ共通点を知ることができます。それは「血潮」です。(ただし、その「血潮」が、あらゆる時代/世代において全く同じものであったと断言することはできません。その点については次回以降に取り上げたいと思います)。「血潮」は、私たちをこの地上に生きることができる存在にするものです。また、霊を持った霊的な体というよりは肉体を持った肉体的な体にするものです。というのは、霊は「血潮」を持たないので、肉体が持つような地上への正当なアクセス権がないからです。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。(ルカの福音書24章39節)
このように、霊には骨も骨髄の中で造られる血液(血潮)もありません。
ここで、「時代/世代」と訳されている単語についてもう一度見てみましょう。ヘブライ語では「ドール」(H1755)、また、ギリシャ語では「ゲネア」(G1074)です。
この言葉には「人種」「家系」「ある家系が地上に暮らした一定の年月」という意味があり、そのおのおのがエバの夫であったアダム(H121)のような一人の祖先を持っています。その一人の祖先から子孫が生まれ、一つの「人種」また「家系」となって広がり、世界のさまざまな国々を形成していきます。
このように、「アダム」(H119)は世界が形づくられてから神様が創造なさったさまざまな「人種」「家系」「人類」の全てを表す「総称」であるといえるでしょう。
神は、一人の人<注>からあらゆる民(エトノスG1484「人類」「人種」「国(民)」の意/アントローポスG444)を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。(使徒の働き17章26節)
<注>欽定訳聖書では「人」ではなく「血」
つまり、エバの夫アダム(H121)の子孫である私たちは、アダム(H119)を原型とする「人種」であり「家系」であり「車種」に例えられるのです。
私たちとは異なる「人類」
創世記1章26節以下には次のように書かれています。
神は仰せられた。「さあ、人(アダムH120)をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」(創世記1章26節)
神は人(アダムH120)をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1章27節)
この「アダム」(H120)はヘブライ語の「アダム」(H119)から派生した単語です。「アダム」(H119)は、神様が創造なさったあらゆる種類の人類の原型であり総称です。
創世記1章26節と1章27節から学べることは次の通りです。
1.「アダム」(H120)が複数を表す場合
26節では、神様が「アダム」(H120)という語を用いることで、「人」が複数であることが示されています。
これは、「アダム」(H120)が男性と女性の両方を含めた人間全般を表していることを示すものです。語源となった「アダム」(H119)は、神様が創造なさってきたあらゆる種類の「人類」の総称ですから、矛盾もありません。
ただし、創世記1章26節で「アダム」(H119)をあえて用いなかったことで、神様は、「アダム」(H120)が具体的に男性と女性の両方を含めた人間全般を示しつつ、私たちとは異なる「家系」「人種」について示唆されたのでしょう。それは、総称として、また、原型としての「アダム」(H119)からつながるさまざまな「車種」に例えられる人間全般を表していると考えられます。
ですから、「アダム」(H120)はさまざまな「車種」――人種、家系、時代/世代――からなる(男性と女性の両方を含めた)人間全般を指し、人間の原型として総称を表す「アダム」(H119)とは区別されます。
『ストロング・コンコルダンス』のような聖書注解の中には、「アダム」(H120)を種としての「ヒト」と定義しているものもあります。「ヒト」という用語を用いれば、お伝えしたい概念をうまく説明できるのかもしれませんが、私は、あえて「ヒト」という用語の使用を避けようと考えています。それは、被造物の「秩序」――神、人間、御使い、動物、植物など――を階級付ける場合に、科学と聖書とでは異なった見解になると思われるからです。また、古い時代に書かれた注解書の多くは、アダム(H121)とエバ夫婦を祖先とする人類だけが過去に存在した唯一の人類であるという立場を取っていると思われます。それらは、創造の奥義が誤って解釈されていますし、アッシャー大主教による誤った年代測定が普及したためにこの世界が創造されたのは6千年ほど前のことに過ぎないとされています。
ですから、「アダム」(H120)は原型としての「アダム」(H119)とは異なる種類の「人種」「家系」「時代/世代」と考えるのが無難で聖書的であると思われます。自動車製造工場の例でいうなら、「アダム」(H120)は原型としての「アダム」(H119)の流れをくんではいても「異なった車種」を表します。
2.「アダム」(H120)が「男性」を表す場合
27節に移りましょう。神様は、男性のみを指して「アダム」(H120)と呼んでおられます。
この箇所には、神様はご自身の似姿に「人」――複数形ではなく単数形――を造られたと書かれています。そして、男性のみを指して「アダム」(H120)が用いられています。これまで解説した通り、ギリシャ語の「アントローポス」(G444)と同様に使われ、「男性である祖先」を意味しています。言い換えれば、神様は男性である祖先を指して「アダム」(H120)と呼ぶことも、また、男性と女性を含めた人間を「アダム」(H120)と呼ぶこともあるということです。
「アダム」(H120)の意味
これまで学んできたことをまとめると、「アダム」(H120)は以下のように幾つかの意味で使われていることが分かります。
1.「人類全般」
26節から、「アダム」(H120)はエバの夫であるアダム(H121)を祖先とする「神様によって創造された、現代の私たちと同じ時代/世代の人種であり家系である人類全般」を表していると考えられます。
2.「原型」を基に新たに造られた「人類」
「アダム」(H120)は男性と女性の両方を含めた人類を指し、「アダム」(H119)とは異なります。つまり、「アダム」(H120)は、原型としての「アダム」(H119)以外の「版」や「車種」のような意味でも使われるのです。
ですから、「アダム」(H120)は神様によって創造された、「私たちと時代/世代を同じくする人類」を意味することもあれば、「原型」とは異なる別の「版」や「車種」としての「人類」を意味することもあるということです。つまり、「アダム」(H120)は、「私たちと時代/世代を同じくする人類」だけではなく、総称としての「アダム」(H119)を基に新たに造られた、別の「版」や別の「車種」としての「私たちとは別の時代/世代の人類」をも表し得るのです。
3.「祖先」
次に、27節を見てみましょう。ここでは、「アダム」(H120)はそれぞれの時代/世代に特定される最初の人間(祖先)である男性を表しています。ギリシャ語の「アントローポス」と同様です。「アダム」(H120)が聖書で「祖先」――ある時代/世代に属する全ての子孫たちの祖となった最初の人間――を意味する単語に相当する語であると考えれば、前回までに学んできたヘブライ語の「リショーン」とギリシャ語の「プロートス」(「最初/第一の人」)に相当する言葉になります。
つまり、「アダム」(H120)には「祖先」という意味はありますが、私たちの時代/世代の人類に限定して使われる単語ではないということです。あらゆる時代/世代のそれぞれの祖先を指すのに「アダム」(H120)が使われているわけです。
「アダム」(H121)の意味
では、別の「アダム」(H121)について見てみましょう。神様が現代の私たちの直接の祖先であるアダム(エバの夫)を示される場合には「アダム」(H121)をお使いになるようです。
「アダム」(H121)はエバの夫であり、私たち人類の直接の祖先を指す名前であると考えられます。聖書の語彙の用法について『ヘブライ語=英語辞典』(BDB)を見ると、「アダム」(H121)には「赤い」または「最初の人」という意味があります。これは、アダムが「血(潮)」を持ち「輝く/火花を発する」存在として創造されたことを示していると考えられます。それは、神様が創造なさった人間の「原型」(H119)であり、神様はさまざまな種類の人間を輝く存在として幾度も創造する意図をお持ちであったと思われます。
この「輝き/火花」は神様の栄光でした。きらめく光のようにアダムの体を覆っていたと思われます。神様が最初に創造なさったときのアダムの姿は「裸」であったと思われがちですが、そうではなく、蛍光灯のようなきらめきを持った神様の栄光で覆われていたことでしょう。
コリント人への手紙第一15章の45節と47節を見てみましょう。
こう書かれています。「最初(プロ―トス)の人(H120/G444「祖先としてのアダム」)アダム(H121/G76「エバの夫であるアダム、主イエス様という本物のアダム(H121)を模範とする型」)は生きるものとなった。」しかし、最後のアダム(H121/G76「型とされた本物のアダム」)はいのちを与える御霊となりました。(コリント人への手紙第一15章45節)
第一の人(アダムH120/アントローポスG444「エバの夫であり、祖先であるアダム」)は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人(アダムH120/アントローポスG444「祖先」)は天から出た方です。(コリント人への手紙第一15章47節)
これら2つの節から、神様が創造なさった別の種類のアダム(H121/G76)が存在することが分かります。
ここまで、私たちの直接の祖先であるアダム(H121/G76)について見てきました。そのアダムは、この地で生きるものの「型」「種類」「模範」として創造されましたが、その「血(潮)」に「罪」の影響を受けて堕落してしまったのです。
それで、神様は別のアダム(H121/G76)を天から送ってくださいました。それはこの地に生きた「本物のアダム」です。その血潮は罪の影響を受けることがなく、堕落することもないものでした。
これら2種類のアダム(H121/G76)は2種類の性格を表しています。その性質を見ていきましょう。
1. 共に「血潮」を持つ存在
上の45節によれば、これら2種類のアダムは「血(潮)」を持つ存在としてこの地に生きました。それぞれ、最初のアダム(H121/G76)、最後のアダム(H121/G76)と呼ばれています。
2. 罪の影響
一方のアダム(H121/G76)――エバの夫であった最初の人アダム――は罪によって血潮が汚されましたが、もう一方の最後のアダム(H121/G76)――主イエス・キリスト――は汚されませんでした。
3. 特筆すべき点
47節によると、双方ともに「祖先」(H120/G444)でしたが、最初のアダムの血潮は汚れ、次のアダムの血潮は汚れていないことが分かります。しかし、ここで特筆すべきことは、双方のアダムが同一の時代/世代に登場しているということです。それは、前代未聞のことでした。同一の時代/世代に2人の「祖先」が存在することになったのです。
45節で、私たちの時代/世代の直接の祖先であるアダム(H121)は生けるものとなった祖先の「模範」と呼ばれました。また、主イエス様は「本物のアダム」であり、天から出た祖先としての霊的なアダム(H121)でした。
このことによって、神様は悪魔を大いに混乱させたのではないでしょうか。悪魔は血潮を通して私たちを攻撃しようとします。そのことを神様はご存じでした。悪魔は血潮を通して、過去にも私たちとは別の種類の「人類」を攻撃しました。神様によって過去に創造されたあらゆる「人類」は血潮を通して攻撃を受けたのです。
しかし神様は、創造の「型」や「車種」に従って、この最後の(私たちの)時代/世代に「模範」となる最初の人を送ってくださいました。サタンは、神様によって過去に造られた別の種類の「人類」に対して行ってきたように、血潮を通して、その人をも攻撃しました。そして、神様によって造られた「車種」である「人類」の創造を終える時が来たので、神様は、罪によって汚されることのない血潮を持った別の「祖先」を天からお送りくださったのです。
このように、悪魔は最初のアダム(H121/G76)を滅ぼすことによって神様よりも優位に立ったつもりでいたことでしょうが、神様は私たちの時代/世代の祖先(H120/G444)である最後のアダム(H121/G76)を別に送ってくださっていたのです。そのお方は、決して汚されることのない血潮を持った次世代の祖先(H120/G76)でもありました。
以上から、コリント人への手紙第一15章の45節と47節の内容をまとめると次のようになります。
エバの夫であり、私たち人類の最初の祖先であるアダム(H121/G76)は、「本物の霊的なアダム」として天から来られた「最後のアダム」(H121/G76)の「模範」「型」「ひな形」「一種」でしたが、その血潮に罪の影響を受けて堕落しました。この最後の人である主イエス様は、血潮を持つ存在としてこの地に生きましたが、罪の影響を受けることなく、堕落もされませんでした。この地のアダム(H121/G76)には成し得なかったことを、天から来られた、この最後のアダム(H121/G76)は成し得たのです。この地の最初の人アダム(H121/G76)は敗北しましたが、同じ地で、天のアダム(H121/G76)――最後のアダムである主イエス様――は勝利を収めてくださいました。私たちにさらに次の「アダム」が必要でしょうか。いいえ、新たな「祖先」はもはや必要ありません。使命は果たされ、完了したのですから!
また、最初の祖先であるアダム(H120/G444)は当然、汚れた血潮を引き継ぐ子孫たちを生み出すことになりましたが、天から来られた祖先である次のアダム(H120/G444)は超自然的な子孫――神様によって天から地へ送られ、やがて天に帰る人々――を生み出す力を持つお方でした。最初の祖先による子孫たちよりも優れた子孫たちを生み出されたのですから、それ以上に霊的な子孫たちを生み出す祖先はもはや必要ありません。
こういうわけで、神様は主イエス・キリストという次の祖先を通して別の種類の「人類」を創造することを決意されました。この新しい人類は、過去のような洪水で世界を滅ぼすことなく創造されました。神様に不可能なことはありません。現存する(私たちの)時代/世代を滅ぼすことなく、主イエス様という次の祖先を通して新しい「人種」「家系」を創造されたのです。最初の祖先を通して受け継がれたものとは異なり、次の祖先(主イエス・キリスト)の血潮によって清められた良心(魂)という新しい霊を持つ存在として新しく造られた者となりました。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(カイノスG2537「近頃造られた人々で、以前の人々に比べてなじみのない人々。更新されたもの」)造られた者(クティシスG2937「元々、神様によって形作られた存在」)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5章17節)
私たちは新しく造られた者ですから、新しい「父」である「祖先」を持つ者です。
しかし、あなたがたは選ばれた種族(ゲノスG1085)、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(ペテロの手紙第一2章9節)
このように、私たちは選ばれた「種族」(ゲノスG1085)です。「ゲノス」として今や、私たちは異なる「父」「祖先(主イエス・キリスト)」「家系」「国民」「人種」を持つ者です。私たちはキリスト・イエスにあって創造された、新しく造られた者となりました。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2章10節)
お気付きかどうか分かりませんが、ここで大切なのは、私たちの家族の中で救われていない者は霊的な家族の一員ではなく、永遠という時を私たちと同じ場所で過ごす運命にはないということです。この地で私たちと同じ国の出身の人々であっても、救われなければ、私たちが将来属することになる新しい国(天国)で私たちと共に過ごす人生を送ることはありません。
ですから、私たちは伝道しなければならないのです。救われていない私たちの家族に、また、同じ国の人々にキリストを伝えましょう。これまで世の中にはびこってきた「人種」の概念の誤りを正す必要があると思います。最も大切なことは、主イエス・キリストの血潮に心から感謝することです。そして、私たちの周りの人々が主の血潮の革命的な力を体験して新しく造られた者となれるように助け導きましょう。
次回は、神様が過去に創造された別の種類の「人類」と私たちがどのように異なっているかについて考察したいと思います。神様が過去に幾度「人類」を創造なさったのか、ご一緒に探っていきましょう。
では、次回をお楽しみに。
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