なぜ天地創造について研究するのか
「天地創造」について研究する必要があると聞くと、疑問に思う人が多いかもしれません。しかし天地創造の奥義の中に、「私たちの神様の偉大さ」と「イエス様の血潮の力」という奥義が隠されているのです。
悪魔はこれまで、地上の人間を味方に引き入れることを目的に、神様に戦いを挑んできました。しかし、その戦いは全て主にイエス様の血潮に対するもので、大変な苦戦の連続でした。ですから、天地創造を理解することは、神様に対する私たちの信仰心を深めることにもなるでしょう。
世界を6千年ほどの歴史しかないと仮定してしまったり、アダムを神様によって造られた最初の人類であると限定してしまったりすると、神様の知恵の深さやイエス様の血潮の力強さについて正しく認識する機会を失うことになります。悪魔は、何十億年にもわたってイエス様の血潮にあらがいつつ、人間に戦いを挑んできたのです。
このように、天地創造について研究することは、私たちが正しい認識を持つために非常に重要です。どうぞ心を開いて私と一緒に研究していきましょう。神様が皆さんを必ず祝福してくださるでしょう。天地創造について知ることこそが、私たちの信仰を深めるのです。
「アルケー」の意味
まず、「アルケー」という言葉から見ていきましょう。
「アルケー」(G746)はギリシャ語で「始まり」を意味し、ヘブライ語の「レーシート」(H7225)に相当します。「アルケー」は女性名詞で「物事を始める人または物」「一連の人や物の最初」つまり「先導者(起源)」を意味します。
「アルケー」とは、時間的または時系列的な意味での「始まり」のことです。その時系列は、物事の起きた順序に関係するものとして、または順序に従って並べられたものとして定義されます。つまり、「初期点(出発点)」であり、「(比喩的に)最初にくる事物で、それ故に主要なもの(第一人者)、すなわち、他に先んじる故に優先権を持つもの」であり「卓越したもの」を意味します(『ストロング・コンコルダンス』)。
また、「一連の」とは、ひと続きの物事や出来事が順に並べられたものと定義されるか、または、同列の物事や出来事が幾つも、空間的か時間的(時系列的)に次から次へと連続して起こっているものと考えられます。
「アルケー」とは「卓越したもの」で、幾つかの出来事を時系列に沿って順に並べた際に、先頭にくる出来事が起こった「時」を意味します。
それはちょうど、自動車会社を始めようとするときのようなものです。販売する車種を毎年一つずつ考案し、20年間で20車種を販売するとします。会社を設立した最初の年に製造した第1台目の自動車は、今後製造することになる20車種の全ての中で「アルケー」の自動車ということになります。
創世記1章1節に次のように書かれています。
はじめに神が天と地を創造された。(創世記1:1)
この「はじめ」と訳された言葉はヘブライ語の「レーシート」(H7225)で、ギリシャ語の「アルケー」に相当します。
あなたは はるか昔に地の基を据えられました。
天も あなたの御手のわざです。(詩篇102:25)
この「はるか昔」がいつ頃のことを指すのか具体的な言及はありません。英語の欽定訳聖書では「昔」と訳されていますが、七十人訳聖書では「はじめ」(レーシート/アルケー)と訳されています。他の訳でも同様に「レーシート/アルケー」が採用されています。
しかし、例えば、私たちが自動車工場を始めて、20年間で20車種の製造を計画するとしましょう。最初の車種の製造を始めた最初の日の感動を言葉で伝えたいと思うのではないでしょうか。詩篇102篇25節は、まさにその日の私たちの気持ちを表しています。神様が創造のはじめにしてくださったのは「地の基を据える」ということでした。
わたしが地の基を定めたとき、
あなたはどこにいたのか。
分かっているなら、告げてみよ。
あなたは知っているはずだ。
だれがその大きさを定め、
だれがその上に測り縄を張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたのか。
あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
明けの星々がともに喜び歌い、
神の子たちがみな喜び叫んだときに。(ヨブ記38:4〜7)
ヨブ記のこの箇所から私たちは、神様が地の創造を始めた「レーシート/アルケー」で表される「最初の時」に起こった感動的な事実を知ることができるのです。この「レーシート/アルケー」は、「時の始まり」でもあります。「時」自体の基点であり、神様による創造の最初の時点のことです。
では、創世記1章2節を注意深く見ていきましょう。
地は茫漠(ぼうばく)として何もなく、闇が大水の面(おもて)の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。(創世記1:2)
ここで、何か気付くことはありませんか。一つは、創世記1章2節には「レーシート/アルケー」とは書かれていないことです。もう一つは、創世記1章1節の出来事と創世記1章2節の出来事との違いです。つまり、創世記1章2節の出来事は、神様が創造を始めた時点である「万物の始まり」に起こった出来事ではなかったということです。
ここでも、自動車工場の例から考えてみましょう。創世記1章1節は「レーシート/アルケー」の時を指していることから、私たちが自動車会社を始めた最初の日の出来事に例えるとよいでしょう。しかし、創世記1章2節は全く別の時を表しているのです。
また、「最初の人間」つまり神様が創造なさった(人類の祖先である)アダムは「アルケーである人」「アルケーなる者」「最初の人」と呼ばれます。ギリシャ語聖書かヘブライ語聖書を見れば明らかですが、この「最初の人間」が「アルケー」とされています。
また、「アルケー」は「時の始まり」つまり「世の基」とも呼ばれています。それは、以下の聖書箇所からも確認できます。
初めに(アルケーG746)ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)
主イエス様は、「時の起源」(アルケーG746)の時点で父なる神様と共におられたのです。
この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネ1:2)
「時の起源」である時点で、主イエス様は父なる神様と共におられました。ヨハネの福音書1章1節と2節に見られる「初め」は、「時の始まり」を表しています。今回ご一緒に、この「初め」がどれほどの年月をさかのぼるものか見ていきましょう。
「リショーン」「プロートス」の意味
「アルケー」についてはこれくらいにして、次は、「第一の」という意味のヘブライ語「リショーン」(H7223)とギリシャ語「プロートス」(G4413)を見ていきましょう。
ヘブライ語の「リショーン」(H7223)の定義は次の通りです。
前の――場所や時間や階級において第一の(形容詞または名詞)――祖先、以前から存在したもの、始まり、最年長の、最初の、先の(先祖、第一人者)、前の(前者)、昔の、過去の
自動車工場の例を考えると、この「リショーン」という単語は、新年度に新しい車種を発売する際に製造された最初の車を表していると考えられます。つまり、「リショーン/プロートス」は、その年の新車種の第1台目の自動車です。
上記のヘブライ語の定義によれば、それぞれの年の新車種の中の第1台目は、その車種の「祖先」といえるでしょう。「リショーン/プロートス」は「最初の人」「年長者」「一番初め」を意味するからです。
このように、聖書に「祖先」を表す単語があっても、私たちの定義する「祖先」とは異なるのです。聖書で「第一の者」と表されていても、それは、新車種の販売期間に製造された自動車の第1台目として、その車種の「祖先」であることを指しています。
上の定義の中に「先祖」とありますが、次の車種が登場するまでの一定期間に製造ラインで生産される車の中で一番初めになることを示しているのです。
「第一の」を表すヘブライ語「リショーン」に相当するギリシャ語「プロートス」の定義は次の通りです。
時間または場所において、物事または人々の何らかの連続において、第一となること。この場合の連続とは、一連の物事、人々、出来事、または行為が系列化されたり、次々に起こったりするものと定義される。
このように、このギリシャ語の定義から「リショーン/プロートス」は、ひと続きの事柄の中で最初に起こるものであることが分かります。自動車工場の例に戻ると、「リショーン/プロートス」は、新年度に新車種の製造を始める際の第1台目の自動車を表しています。それは、あらゆる創造の循環の中で最初に製造または創造された「第一の祖先としての存在」で、人類にも当てはまります。
ですから、始め(レーシート/アルケー)の人間である祖先(アダム)と、最初(プロートス)の人間である祖先(アダム)とは、ともに「祖先」と表現されてはいても、異なった意味を持っているのです。「リショーン/プロートス」と表される最初の「祖先」は、幾つかの創造の循環の中で複数存在している可能性があります。しかし、「アルケー」を基点とした、創造または製造という一つの大きな時間軸の中で見た場合、「アルケー」である祖先はただ一人であると考えられるのです。
ここまで読んで、驚かれた方が少なくないかもしれません。先へ進む前に、一息ついて次の聖書箇所を見てみましょう。
こう書かれています。「最初(プロートスG4413)の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。(1コリント15:45)
この聖書箇所を引用して、アダム以前に人類は存在しないことを証明しようとする人々が多くいます。アダムとはもちろん、エバの夫で、禁断の実を食べたアダムです。しかし、主が過去に他にも「人類」を創造なさったとしたら、数々の人類の祖先の中の祖先である「アルケー」の「アダム」が一人だけ存在することになります。実際、イエス様は「最後のアダム(祖先)」とされているので、禁断の実を食べた、私たちの祖先であるアダムは、最後から2番目の祖先ということになります。この点については、別の機会に詳しく見ていきたいと思います。
コリント人への手紙第一にあるアダムは、過去に創造された、あらゆる人類の「始まり」(アルケー/レーシート)のアダム(祖先)ではなく、私たちの「世代」(ドールH1755/ゲネアG1074)の人類の中で「最初」(リショーン/プロートス)のアダム(祖先)と考えられます。
「アルケー」は、時間的な意味でのみ「始まり」として使われる言葉です。この「時間的」とは「時という枠の中にある」という意味です。「アルケー」は「第一人者」「主要な」「他に先んじる(卓越したもの)」という意味がありますから、「創造」という大きな時間的な枠の中で使われる場合、「プロートス」とは異なるのです。
「プロートス」は単に、階級や場所、序列においての「最初」を意味しますが、「アルケー」は、「プロートス」を超越した「第一人者」として「卓越した」存在を意味します。このように、「アルケー」が時間的な枠内で使われる場合、それは「全ての起源の中の大本の起源」のことなのです。
また、主イエス様が「はじめ」(アルケー)という言葉を用いられている箇所の大部分が、「時の始まり(起源)」を指しています。
イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめ(アルケーG746)の時から『男と女に彼らを創造され』ました。(マタイ19:4)
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑(かたく)ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめ(アルケーG746)の時からそうだったのではありません。(マタイ19:8)
また、この「アルケー」(私たちの祖先であるエバの夫、アダムの時代よりはるか昔の「創造の始め」)について、主が確かに語られたということを証明するために、マルコは次のように記しています。
しかし、創造のはじめ(アルケーG746)から、神は彼らを男と女に造られました。(マルコ10:6)
なお、主イエス様は、「はじめ」(アルケーG746)を「宇宙、世界」(コスモスG2889)という意味でも使われています。
そのときには、世(コスモスG2889)の始まり(アルケーG746)から今(ニュンG3568「現時点」)に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。(マタイ24:21)
マタイの福音書24章21節によると、神様は、「時」を創造なさったときに、同時に「宇宙、世界」(コスモス)や地上に住む人々、それぞれの文化を創造なさいました(この「コスモス」には月や星や惑星や銀河などが含まれます)。
上の聖書箇所は、その苦難の影響が「ある時代やその中での霊的な営み」(アイオーン)だけではなく、地球や他の惑星から見える月や星にまでも及ぶであろうことを示しています。
マルコは、「創造」という言葉を用いてさらに分かりやすく述べています。
それらの日には、神が創造された被造世界のはじめ(アルケーG746)から今(ニュンG3568)に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)
以上のように、聖書に「祖先」「原初の人」について書かれている場合、それは「アルケー」である祖先アダムであって、「プロートス」である祖先アダムとは明確に区別されていることが分かりました。次回は「世代/時代」という意味の単語を見てみましょう。
◇