前回は、ギリシャ語の「アルケー」や「プロートス」の意味の違いなどを詳しく学びました。聖書に「祖先」「原初の人」について書かれている場合、それは「アルケー」である祖先アダムであって、「プロートス」である祖先アダムとは明確に区別されていることが分かりました。それに関連して、今回は「世代/時代」という意味の単語を見ていきましょう。
「世代」「時代」と訳されている単語は、ヘブライ語では「ドール」(H1755)で、ギリシャ語では「ゲネア」(G1074)です。
ヘブライ語において、「時代」とは「時の改新」と定義されています。時の改新とは、一人の祖先が創造されてから同時代の最後の人が生まれるまでの年月が一新されることです。その後、新たな祖先が創造されるというわけです。新たな祖先が創造されるのは、その祖先と同時代の最後の人が生まれた後です。自動車製造工場の例で言うと、時の改新までの「全過程」は、新車種の第1台目の自動車が製造されてから同車種の最後の自動車が製造されるまでの間の年月を意味します。その後、新たな車種の製造が始まります。
自動車製造工場の例をさらに見ていきましょう。20年間に異なる20車種を製造するとして、1年間の生産台数は5千台だとします。工場を始めた最初の年に製造された第1台目は、20車種の全ての車の中の第1台目でもあるので、「アルケー」の車と呼ぶことができるでしょう。しかし、2年目以降は、その年に製造された第1台目であっても「アルケー」ではなく「プロートス」の車ということになります。
人類の創造についても同様に考えることができます。創造の年数を20年間という非常に短い期間に縮小して考えてみましょう。その場合、第1年目の最初に創造された最初の人が「アルケー」であるアダム(祖先)です。その1年間を一つの世代(時代)と考えるとよいでしょう。自動車の例と同様に、5千番目に生まれた人は、その世代(時代)最後の子孫と見なされます。そして、世代(時代)が改まった翌年には、別の祖先が新たに創造されて新しい世代(時代)が始まります。しかし、ここで注意しなければならないのは、第2年目以降の創造において、それぞれの年の最初に創造された人は「アルケー」のアダム(祖先)ではないということです。第2年目から第20年目のそれぞれの世代(時代)における最初に創造された人は「アルケー」ではなく「プロートス」のアダム(祖先)となります。
このように、年間5千台の自動車を製造する例で考えると、時の改新までの「全過程」が理解しやすいのではないでしょうか(この場合の「時」とは「一つの完全な世代」と考えるとよいでしょう)。
「世代」「時代(時)」と訳される言葉である「ドール(H1755)/ゲネア(G1074)」は、「非常に長い期間」を指しています。『ストロング・コンコルダンス』によって、「ドール」が「ドゥール」(H1752)の派生語であることから分かります。
「ドゥール」(H1752)は「回転する(円を成して動く)」「留まり続ける」「住む」という意味です。この「住む」が表すのは、「人々が家族を成して生きる」「地上に居住する」ということだと思われます。
『ゲゼニウス・ヘブライ語・聖書アラム語辞典』から分かるのは、「ドゥール」(H1752)が、「昔」を意味するドイツ語をはじめとして「長い」を表す西洋語や「長い期間」という意味のギリシャ語「クロノス」の語源となっているらしいということです。ですから、「世代」(ドール)とは、地上が人々の居住の地となり続けた年月に相当する「非常に長い時間や期間」を指していると考えられます。
『古代ヘブライ語辞典』の定義と語源解析によれば、「ドゥール」という単語には「人類の往来活動」という意味があります。
ヘブライ的見解における「秩序」とは、生と死、または再生と破壊という継続的、周期的な過程のことです。というのは、古代ヘブライ人の間には「隠された奥義」があり、それによると、さまざまな型の人類が種類ごとに造られたと伝えられているのです。それは、これまでの例で言えば、自動車製造工場でさまざまな車種が製造されることを表しています。
『古代ヘブライ語辞典』の定義によると、この「ドール/ゲネア」(世代)もまた、「家系の改新」といえます。『メリアム・ウェブスター英英辞典』によると、「家系」とは「共通の祖先の流れをくむ人々」と定義されています。
上記の「家系の改新」の定義を分析しましょう。「家系」とは、「リショーン/プロートス」(該当世代の祖先アダムとして創造された者)の出現から(同じアダムからつながる血統の)最後の子が生まれるまでの系統のことです(その後、新たに別の祖先が創造されます)。自動車製造工場の例でいえば、「家系」は新車種の第1台目の車(プロートス)から同種の最後に製造される車までの時間の長さのことです。それが「家系の改新」というわけです。
しかし、これまで見てきた「時の改新までの全過程」とは別に、「祖先」(リショーン/プロートス)の創造から同じ「世代」(ドール/ゲネア)の最後の子の誕生までの期間もまた、「全過程」でないのにもかかわらず、同じく「時代」「世代」と呼ばれます。(祖先アダムではない)族長と、そこから続く子孫たちとの間の「時の改新の全過程」を伴う期間もまた「世代」と呼ばれているのです。
もう一度、自動車製造工場の例を考えてみましょう。新車種の第1台目(プロートス)の自動車を製造し始めてから、例えば、8カ月目とか10カ月目までの期間もまた「世代」「時代」と呼ばれます。ただ、一つだけ言えることは、それは「時の改新の全過程」ではないということです。つまり、同じ車種の10台目の車の製造から11台目か12台目の車までの期間も同様に「世代」と呼ばれることになります。
このことについて聖書を見てみましょう。
まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代(ゲネアG1074)が過ぎ去ることは決してありません。(マタイの福音書24章34節)
この聖句において、主イエス様が人々に語っておられたのは、終末についての主の預言が、ご自身の生きた時代を生きていた人々が死ぬまでに成就するということではありません。ここで主イエス様は、エバの夫であったアダム(プロートス、最初の人、祖先)と同じ世代――時の改新までの全過程――を生きる私たち全てと、この世代の最後の子までを指して語られたのです(その最後の子とは、ハルマゲドンまでに生まれる可能性が高く、エバの夫であったアダム(リショーン/プロートス)から始まった世代の人々にとっての「時の改新の全過程」もしくは「家系の改新」を目の当たりにする時代である可能性が高いと思われます)。
「ゲネア」(時代、世代)は「一時代」の意味で使われています。つまり、連続する世代の人々の生きた期間が、ちょうど「時の改新までの全過程」の枠内にある「小」時間と見なされているということです。
主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。(創世記15章13節)
そして、四代目の者たち(ドールH1755)がここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15章16節)
以上二つの節から、「世代」とは起源となる祖先(アダム)からではなく、族長であるアブラハムから計算されたものであることが分かります。そして「一世代」は100年間と考えられていたようです。
「世代」についてさらに理解するために、ギリシャ語の意味を振り返ってみましょう。この言葉は「創造」について理解するためにも不可欠です。ですから、もう少し時間をかけて丁寧に調べていきたいと思います。
この「世代」「時代」という意味のギリシャ語「ゲネア」は、『バイン聖書辞典』によると、「ギノマイ」(G1096)から派生した言葉です。「ギノマイ」は「出産する」「子をもうけること」「誕生」という意味です。ですから「世代」とは「産み出されたもの」すなわち「家族」を意味します。それ故、「世代」(ゲネア)は「種族」「家族」としての「世代」と定義されます。言外の含みとして、「世代」は「時代」(「期間」または「人々」)も表すでしょう。やがて「時間あるいは国民」という意味にもなりました。
ギリシャ語の「ゲネア」には他に「同じような特徴や志向を持つ人種」という意味があります。つまり、「世代」とは共通の祖先(最初の人アダム)を持つ全ての人々か、それらの人々が地の面に生き、存在した期間を表しています。
ギリシャ語の「ゲネア」の定義で重要なのは、神様は、私たち人間が(肌の色などで)定義するように「人種」を定義なさらないということです。「人種」としての「ゲネア」とは、アダムのような共通の祖先の子孫であるあらゆる人のことです。それは、肌の色や濃淡に関係ありません。同じ世代の人々は一つの「家族」なのです。
再び自動車製造工場の例を考えてみましょう。ある車種の第1台目(プロートス)として製造された車から、その車種の最後に製造された車までの全ての車が一つの家族であり、一つの「人種」となります。
科学的にも、アダムの子孫である人類は「ホモ・サピエンス」と呼ばれます。つまり、私たちは一つの「人種」です。そしてそれは、神様が私たち人類を創造される前に創造された他の数々の人種とは異なります。聖書が示す「人種」の概念と、科学が示すそれとは幾つか違いがあります。
ここで注意していただきたいのは、科学が、人間の存在の源としての創造という事実から神様を排除しようとしていることです。ですから「人間はどのように出現したか」についての理論が十分に正確であることは決してないでしょう。しかし、人間とはどのような存在であるかを明らかにしていく上で、科学の方がキリスト教会より何十歩も先を進んできました。
ここまで、「ゲネア」(世代)が「期間」「人種」「家族」「国民」を表すということを見てきました。次に「時」を表すヘブライ語とギリシャ語の定義を見ておく必要があります。
「期間」「時代」と訳されているヘブライ語「オーラーム」(H5769)とギリシャ語「アイオーン」(G165)の定義は次の通りです。
時代、時期(「息をする」という意味の「アオー」(G104)よりはむしろ「ずっと」という意味の「アエイ」と関係がある)
「アイオーン」について、アリストテレスは「息」と関係する言葉であると述べています。また、語源の研究をしている他の言語学者や歴史学者は「ずっと」を意味する単語が語根となっているという結論を下しています。
私は個人的にアリストテレスの主張も支持しますし、上記両方の意味とも正しいと考えています。「アイオーン」(期間、時代)が「息をする」という意味をも持つと私が信じる理由は、あらゆるものが神様の息から出たという事実があるからです。神様が息を吹き入れた瞬間、あらゆるものが生きたものとなり、生命が始まります(つまり、そのような実体となった存在の年齢は、その瞬間から数え始めることになるのです)。
今日、天にあるものも地にあるものも、全てが神様の息によって存在しています。父なる神様から出て、年齢を重ねていくのです。ですから、過去に(時を越えて)終わりのないほどの時間を生き続けてきたもの、つまり、「時」の始まり(時の起源)から絶え間なく生き続けてきたものについて言うなら、その実体は、父なる神様から生命の息を受け取って生けるものとされたに過ぎないのです。実際、ヘブライ語で「神の生命そのもの」を表す「ハイ」(H2416)は、比喩的に「年齢」という意味で使われていますし、また、「あらゆる生けるもの」という意味の「ハヤー」(H2421)の派生語でもあります。
このように、ギリシャ語の「アイオーン」(期間、時代)は「途切れない時代」「絶え間ない時間」と定義できます。「絶え間ない」とは「中断されることなく続く」という意味です。従って、「アイオーン」は「永遠」という言葉の語源と関係しているといえます。
「アイオーン」は、時間的なことを表すのに使われる言葉です。「時」が始まるとき、つまり、「アルケー」である「時の起源」と同時に始まるものですから、「時」が始まった時点を越えてさかのぼることはありません。
「アイオーン」は「果てしない」「枠にはまらない」「(限界のないほどに)無限の」「絶え間のないものではあるが終わりがないわけではない」を意味します。「時間」(アイオーン)は、「絶え間のない時間」または「(限界のない)無限の時間」という意味で使われ、「短い期間」を指すことは決してありません。
このことから、世界は6千年前や1万年前などといった安易に割り出せるような時点で創造されたはずがないということが分かると思います。聖書には「千の数千倍」(千の倍数)などという数字が出てきます。もしも地が、それほど短い期間をさかのぼっただけの過去に創造されたのだとしたら、聖書に、世界の始まり(アルケー)の時期について具体的な数字が出てくるはずです。「過去の絶え間ない時間(アイオーン)」とか「はっきりと知ることも理解することもできないほどの永遠の時間(アイオーニオスH166)」と記述されることはなかったでしょう。
聖書における「何十億」を表す言葉の用法について
聖書を注意深く見ていくと、大きな数を表す際に使われる言葉があります。ヘブライ語の「レババー」(H7233)とギリシャ語の「ミュリアス」(G3461)です。意味は「千」を表すようです。そして、それ以上の数は「ミュリアス」(千)の倍数で表されるようです。
この「ミュリアス」は新約聖書で幾つか使われています。例えば、ヨハネの黙示録9章16節に「2億」とありますが、これは「千(ミュリアス)の千(ミュリアス)倍の2百倍」と表されています。
ですから、聖書の出来事が記録された時代の人々は、(数学的知識が乏しくて)数えることができなかったわけではなく、あえて大きな数を表す「アイオーン」(期間、時代)という概念を導入したのです。「アイオーン」は「創造」や「時の始まり」(アルケー)について語る場合に関連して使われ、「果てしない」「枠にはまらない」「(限界のないほどに)無限の」時を表すものとして記されました。
このことから、古代の初めから「世界の始まり」「世界の創造」がほんの数億年前ということはないという認識があったことが分かります。古代の人々にとって確定することのできない年数であった故に「限界のない」「際限のない」時間を意味する「アイオーン」という言葉を使って表すことにしたのです(また、それは「数十億」を表すのに「ミュリアス(千)」の倍数を使うよりも良い方法です)。そして、それは「時の始まり」や他の出来事が起こったと考えられる「何十億年前」という年月を表現する際に用いられたと思われます。
このように、聖書に「何十億年」という言葉はありませんが、4千年ほど前に使われていた単位や用語が、今日私たちが使っているそれと同じはずがないということを心得ておく必要があるとお伝えしたいと思います。
聖書における「何十億」を表す用法を理解するための方法がもう一つあります。それは「ドール/ゲネア」が聖句の中でどのように使われているかを調べることです。
「ドール」は無限大の「豊穣」を意味します。『ストロング・コンコルダンス』によると、「ドール/ゲネア」は「時間、時代」(世代)とあります。そして、この言葉が2回繰り返されるか、時を表す他の言葉と共に使われる場合、実質的に「無限大の」「限りのない状態の」――終わりがなく、計り知れないほどに想像を絶するほど莫大な、無尽蔵な――「時」を示します。そして、これは暗に「何十億」を表すものであると私は考えています。
「ドール/ゲネア」が「無限大」という意味で使われる例1(ヨブ記8章8節)
先の代の人に問うてみよ、先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。(ヨブ記8章8節、口語訳)
ここでは、「祖先」「始まり」「第一の」「最年長の」を意味する「リショーン(H7223)/プロートス(G4413)」が「先の」と訳され、そして、「ドール(H1755)/ゲネア(G1074)」が「代の人」と訳されています。
「リショーン」(H7223)の定義を再び確認しましょう。
前の――場所や時間や階級における第一の(形容詞または名詞)――祖先、以前から存在したもの、始まり、最年長の、最初の、先の(先祖、第一人者)、前の(前者)、昔の、過去の
七十人訳聖書では、上の聖句は「ゲネアン(ゲネア)・プローテース(プロートス)」とあり、過去の世代(「ドール/ゲネア」――家族、人類)の先祖たちに問うという意味です。
<注>「リショーン」も「ドール」と同様に「時」(昔、過去)を表す単語です。
つまり、ヘブライ語の「ドール」と「リショーン」、または、ギリシャ語の「ゲネア」と「プロートス」というように、「時」を表す単語が二語一組で使われる用例が見られます。「ドール」や「プロートス」の使い方を調べてみるとよいでしょう。「ドール」が「時」を表す別の単語と共に使われる場合、それは実質的に「限りない年月」を示しています。そして、それは具体的には「何十億年」を意味するものと私は考えています。
「時」を表す単語が2つ同時に使われていることから、上記の聖句は無限大の(終わりのない――何十億年もの)年月を表しているといえます。すなわち「時」の始まり(アルケー)に至る祖先たちやそこから連なる過去の世代の人々(ドール/ゲネア)――家系、父祖――について尋ね、また学ぶようにと促しているのです。なぜなら、「時」の起源である「アルケー」以前に「時」は存在しないからです。言い換えれば、神様は私たちに、私たちの祖先であるアダム(エバの夫)とは別に何十億年前もの過去に存在したであろう他の祖先(とその子孫たち)についても尋ね求めよと問うておられるのです。
今日では、それは専ら、科学界の人々が励んでいることであって、キリスト教会は手をこまねいたまま「地球の歴史は6千年に過ぎない」と主張しているだけです。ここで詳しく述べることはしませんが、私たちには、何十億年も前の祖先たちから学び受け継ぐことのできる霊的な遺産――それが、私たちの直接の祖先である、エバの夫で禁断の実を食べたアダムではない祖先からであったとしても――があるのです。
「ドール/ゲネア」が「無限大」という意味で使われる例2(コロサイ人への手紙1章26節)
すなわち、世々の昔(アイオーンG165)から多くの世代(ゲネアG1074)にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。(コロサイ人への手紙1章26節)
この聖句では、「ゲネア」(ドール)が、「時」を表す別の単語である「アイオーン」の後に置かれ、二語同時に使われています(つまり、「アイオーン」と「ゲネア」の二語で「無限大の年月」を示しています)。
次のように言い換えると分かりやすいでしょう。
世々の昔(アイオーン――枠にはまらない、絶え間ない年月)から、そして「時の改新」すなわち「家系(ゲネア)の一新」から隠されてきた奥義であったものが、今では神の聖徒たちに明らかに示されるようになったのです。
「アイオーン」一語で、時という枠にはまらないほどの年月を表すとはいえ、終わりがない年月というわけではありません。しかし「時」を表す言葉である「アイオーン」と「ゲネア」(ドール)の二語が一組で使われると、それは(終わりのない、「時」を超えた)「無限大の」の年月を表すのです。
ですから、コロサイ人への手紙1章26節は次のように解釈できます。無限大で限りない(終わりのない、計り知れない、無尽蔵な、限界のない)年月にわたって隠されてきた奥義が存在するということです。それは終わりがないほどの年月であることから、この聖句は次のように捉えるとよいでしょう。つまり、世界が始まる前から(「時」が始まる前であり、何十億年も前であることを暗示しつつ)神様のうちに隠されてきた奥義について指しているのでしょう。
その奥義は、無限大の過去(限りない時、つまり、終わりのない、計り知れない、無尽蔵な、限界のない年月)にわたって神様と共に隠されてきましたが、今や、聖徒たち(私たちの世代の信徒たち)に知られるものとなったのです。
「オーラーム/アイオーン」(果てしない時間、時代)と「ドール/ゲネア」(一世代、一時代)との違い
(1)時間の長短という観点からの比較
聖書における「ドール/ゲネア」の時間的な長さは通常、「オーラーム/アイオーン」に比べて短いものとされています。
(2)時間の継続性という観点からの比較
「ドール/ゲネア」は「時の改新」であり、区切られた時間(ある祖先とその子孫たちが地上に住み生活した期間)のことです。それに対して、「アイオーン」は途切れることのない果てしない時代であり、絶え間ない時間を表しています。
<注>「ゲネア」(G1074)が「時の改新」(時の一巡、一回転する時代)を意味するのとは対照的に、「アイオーン」(G165)は途切れることのない絶え間ない時間を意味します。
(3)「アイオーン」と「ゲネア」(ドール)との関係
「アイオーン」は、「ゲネア」(ドール)という、より小さな時間単位に分割されます。
一つの世代(ドールH1755/ゲネアG1074)が去り、次の世代(ドールH1755/ゲネアG1074)が来る。しかし、地はいつまでも(オーラームH5769/アイオーンG165)変わらない。(伝道者の書1章4節)
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