日本の戦争責任については、確かに韓国における暴政、中国における数々の凶悪な行動など、日本が悔い改めねばならない事柄は多々ある。
しかし、全てが日本の責任であり、日本の狂気がなせるわざであるとか、また、米国は善であり、終戦後に日本は米国に指導されて、初めて良い国となり始めた、戦前の日本は全く暗黒と狂気の満ちた国であった、などとするのは非常に無理がある。現代の日本人は、ほとんどが欧米のキリスト教国の植民地経営の実情について無知のまま議論をしているが、これでは話にならない。
牧師の全部でなくても、各教派の指導者格の人物は、これらのことを把握しておくべきであろう。歴史の無知からは、自分についての無知が生じ、また、相手についての無知が生じる。己を知らず、相手を知らずでは、宣教の戦術の立てようがないのである。
戦争責任論のタブー
また、先に述べたように、日本人の学者たちは、キリスト教の知識が十分でないことを自覚しているので、節度をもってあまりこれに立ち至らないようにしている。非クリスチャンが、これに触れて論じるのがタブーになっていることは、先に述べた。
一方、欧米の学者たちは、これまたキリスト教の矛盾と偽善について、自分たちの恥部であるので触れるのを避け、見て見ぬ振りをしている。これももう1つのタブーである。タブーというのは触れてはいけないもので、見ないことにする。それが続くと、やがて自分が見て見ぬ振りをしていることも忘れ、本当に見えなくなる。
それが、本格的な偽善への入り口である。これらの2つのタブーは、認識の真空を生んでいる。この真空は、壊されねばならない。内部告発が必要である。それができるのは、日本のクリスチャンだけである。アジアの一国であり、植民地化の害悪を見抜き、国の生命を賭けて、これを拒絶してきた日本である。内部告発は、日本のクリスチャンの義務である。それなしには、根本的な解決はない。
米国人の側では無邪気にも、自分たちの国は「自由と公正と博愛の国、人類の理想の社会」であると思っている。建前と現実の乖離(かいり)を認識できておらず、気が付いていない。
だいたいトーマス・ジェファーソン(第3代大統領)らが、米国の独立宣言を書いて「全ての人は平等」と言ったとき、「全ての人」とは一体誰を指していたのか。ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』によると、それは「財産を持った白人男性」のことである。
欧州では「貴族」だけが人間としての権利を持っているが、米国は違う。貴族でなくても「財産のある白人男性」なら、人間としての権利を持っているというのが、ジェファーソンの意味である。
だから、ジェファーソンらの独立宣言には、女性、財産のない白人、インディアン、黒人、また欧州から出稼ぎで来ている貧しい白人などは全て除外されている。彼らは「全ての人間」に入っていないのである(Howard Zinn, A People’s History of the United States)(『民衆のアメリカ史』ハワード・ジン、猿谷要監修、富田虎男訳、明石書店)。
福沢諭吉は、ジェファーソンの独立宣言に感激して、『学問のすすめ』の冒頭に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・・」と書いた。そして、女を低く見る日本はけしからん、すべからく一夫一婦たるべし、妻妾同居など怪しからん、と説いた。字面だけ見て感激したのだろう。福沢諭吉がこれを読んだのは、ジェファーソンの独立宣言の90年ほど後のことである。
日本人はナイーブ過ぎる。理想が高らかにうたい上げてあると、その通りに行われていると思ってしまう。それだけ日本は建前と本音が近い正直な文化を持っているからだろう。だから、キリスト教国の建前主義にはコロリとだまされてしまう。
日本では、現実から離れた理想などを言うとバカにされるので、現実から少しだけ前向きのことを言う。米国では、現実はどうであっても理想を高く掲げると、それだけで偉人として通用するようである。
ジェファーソンが自分の屋敷に120人も黒人奴隷を持っていたこと、また、屋敷の中で女奴隷の何人かを愛人にしており、混血の子どももいた。そういうことは、福沢諭吉は夢にも思わなかったということだろう。
白人が黒人を殺しても、裁判にはならなかった。20世紀になって、白人の犯人が逮捕され起訴されても、陪審制だから白人は常に無罪にされてきた。こうして黒人は完全に去勢されてきた。そのことは前に述べた。そして、福沢諭吉が独立宣言に接してから約100年後に、公民権法が成立し、 黒人は「人間」扱いを許され、黒人を殺すと有罪ということになったのである。
黒人の反乱の最大のものは、ナット・ターナーの乱であるが、数十人が結束して白人60人ほどを殺し、すぐ鎮圧され、関係者は処刑された。 1831年、南北戦争の30年前のことである。
一体何がこれほど黒人を無力化させたのか。これは単に「政策」の問題ではないであろう。白人一般の市民意識の問題である。黒人は分散させられ、米社会の白人は男も女も結束して抑圧に回ったということであろう。黒人には銃を持たせず、一方、白人は各家庭にライフル銃を置いたのである。
そうだとすると、フィリピンのマニラでジェファーソンらの独立宣言のスペイン語訳を没収して焼却してしまったという米軍の行動は、まさに米社会の有色人種に関する観念と一致するのである。
日本人はフィリピン戦争の時に、マニラで米軍が独立宣言のスペイン語訳の載っている新聞を燃やしたというのを読んでも、ウソだろうとか、まさか米国人がそんなことをするはずがないなどと思ってしまうのである。日本人はいつも、自分たちも人間であると思ってきた。ところが米国からみれば、無知で貧しいアジア人は「全ての人間」の中には入っていなかったのである。
日本宣教の見地から言うと、日本の戦争責任を強調し、悔い改めを迫るのは再考すべきであろう。現在行われている戦争責任論の多くは、勉強し直してもらわねばならない。不十分で不正確な歴史把握から出てきている論議は、社会からは反発されるだけ、つまずきを生むだけである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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