開戦の詔勅と大東亜宣言
太平洋戦争の開戦の詔勅(しょうちょく)は、そのかなりの部分が中国問題に割かれている。その内容は、日本の中国政策を米英が妨害し、よって東アジアの平和を乱していると主張している。また、米英は他の国々を率いて日本に経済制裁を加えようとしており、「自存と自衛」のために戦うと言っている。
この時、確かに日本は中国を侵略し、自国の勢力範囲を広げようとしていた。しかし、それをやったのは日本だけではない。欧州はみな中国を食い物にしていたのであり、日本が手を出さねば、中国は英国と米国の専有の基地となるところであった。
日本という悪者が1人中国をいじめていたので、それに米英が待ったをかけた、というのではない。みんなで中国を食い物にしていたのである。日本はそれに遅れて食いついた。同じだった。そのころ中国は欧州の列強によって利権を分割され、富は収奪され、上海の外国祖界では「犬と中国人は入るべからず」という立て札が立っているありさまであった。
ちなみに租界とは、治外法権の区域で、中国の国内法が及ばず、租借した方の国の法と警察、また軍隊で治安を確保する。そのように取り決められた場所のことである。この時、西欧列強の全てが中国内に租界を持っていた。
この惨状を土井晩翠(ばんすい)[「荒城の月」の作詞者]は、1899(明治32)年、「万里の長城の歌」の中で次のように言って嘆いている。
愛を四海に伝うべき
神人の教(おしえ)いま空語、
看ずや豺狼(さいろう)の欲飽かで、
「基督教徒」血をすゝり
・・・
開戦の詔勅の中で、東アジアの平和のためにと言っているところは、主としてソビエトの南下を防ぐことを言っていると考えられる。
満州国の創設は、その後の何十年の歴史と合わせて考えると、意義深い事業であった。これは日本国のギリギリの選択であった。この緩衝地帯がなく、日本がソビエトとじかに接していたら、東アジアの歴史は大きく変わっていたことであろう。
開戦の詔勅には、大東亜共栄圈なるものはまだ主張されていない。この時、アメリカ(米国)、ブリテン(英国)、チャイナ(中国)、ダッチ(オランダ)によるA・B・C・D包囲陣というものが形成され、禁輸により日本は枯渇状態にあった。後にダグラス・マッカーサー将軍は米上院で、この禁輸が日本の開戦の直接の理由である、と証言している。
日本は伝統的にロシアからの侵略を恐れており、朝鮮半島がロシアの手に落ちることは、日本の存立に関して重大な脅威であると考えていた。そして仮に満州がロシアの手に入れば、朝鮮半島は間もなくロシアのものとなるので、日本はこの地方についても重大な関心を払ってきた。
マッカーサーは占領軍の最高司令官であったときに朝鮮戦争を経験し、このことを身に沁みて感じた。彼は朝鮮半島に対する日本の施策の評価を変え、後に退官後に、米上院で日本は自衛のために太平洋戦争を起こした、と証言したのである。
大東亜宣言が出されたのは、開戦後2年たった1943(昭和18)年11月で、この時点で日本はインドネシアを領有するに至っていた。インドネシアは前述のごとく、当時の世界の3大石油産地の1つであり、ここに至って日本は戦争の目的が日本の自存のため、というところから変化し、欧米の桎梏(しっこく)よりの東亜の解放という主張を入れるようになったと思われる。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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