ノモンハン事件
満州国は1932(昭和7)年に成立したが、その5年後の1939(昭和14)年に、ソビエト連邦は内蒙古のノモンハンに侵入した(ノモンハン事件)。戦闘機、爆撃機を合わせて300機以上の大編隊、加えて戦車の大部隊で侵入したのである。ソビエト革命後22年のことで、世界の空軍の歴史が始まって以来の最大の規模の作戦であった。
ソビエト軍の狙いは、大規模の機械化部隊で一気に攻め込み、関東軍を蹴散らし、満州を占拠するものであったようである。世界史の中でソビエト軍の侵略の歴史を見ると、常にそのパターンである。しかし、ソビエト軍はつまづいた。装備においてはるかに劣っていた関東軍は、死傷者を多く出しながらも総崩れにならず、どうにかソビエト軍を食い止めた。
実はソビエト軍の外国侵略の歴史で大規模の機械化部隊で攻め込んで総崩れにならなかったのは、この時の関東軍だけである。日露戦争のあと、ソビエト軍の日本恐怖は大きかったが、スターリンはノモンハンの結果を見て、その恐怖が増したという。
関東軍は最後まで、占領する価値もないこの無名の地点に、なぜソビエト軍の大部隊が攻撃を集中しようとしているのか、その理由を把握できず、戦力の順次投入などのミスを犯した。ソ連の狙いはノモンハンそのものではなく、手薄なところから国境を突破することだったようである。
関東軍の消耗は激しく、壊滅した師団もあった。一般に、この事件は決定的な兵器の劣等性にもかかわらず、戦闘を続行させたということで、日本軍の将軍や司令官たちの無能さを表すものとされている。
司馬遼太郎、井上ひさしの対談『国家・宗教・日本人』(講談社)の中で、ヨーロッパでは死傷者があるパーセンテージを越えると予想されたときは降伏せねばならず、強行すれば軍法会議にかけられる。ノモンハンでの日本側の作戦指揮は愚劣だった、などと言っている。
確かに西欧の国家同士の儀礼では、降伏して捕虜になると、やがて故郷に英雄として帰れるだろう。しかし、アジア人が西欧に降伏して、そのあとに何が起こるかは、アジアの侵略の歴史を見ればあまりにも明らかであろう。そうやってソビエト軍に屈伏すれば、その後どうなったか、東欧の歴史を少しでも見れば明白であろう。
ノモンハンで降参すれば、日本は満州を失い、ついで朝鮮も失ってしまったであろうか。関東軍の将兵は全滅に近い死傷者を出した連隊もあったが、この地点を愚直に死守した。直接には名もなき地点であったが、日本の存立のためには大きな意味を持っていたはずである。
だいたい、戦後のノモンハン事件についての論評を見ると、全てこの司馬、井上の対談の線である。日本の存立について重要な意味を持っていたかもしれない、という認識は全くないのである。昭和初期の日本の営みは要するに全てが価値なきものとして切り捨てられているのが普通である。
正直な感想を言えば、司馬は神戸外語大の蒙古語の出身、戦車部隊の将校で、もう少し外界の事情が分かっている人だと思っていた。彼もしょせんはノンビリした戦後日本型インテリだった。そうでなければ、日本人が喜んで読むものなど書けなかっただろうか、などと思った次第である。
司馬の発言は、日本の戦略をただ愚劣と決め付けるだけで、ソビエト軍の欧州などにおける侵略のパターンと重ね合わせてノモンハン事件を考える、という発想はどうも不在なのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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