勝算があっての開戦ではない
バイアスの疑問に答えて前述の論議を進めているが、日本は決して勝算があって戦争を始めたのでない。座して滅びるよりは、戦って滅びようとしたということであろう。
バイアスの前提は、勝利できないのなら降参するはずというものである。その西洋人の論理に従って、彼は日本が戦争を始めたのは勝算があったからだろうと考える。それがバイアスの前提である。なるほど、白人同士の戦いなら、勝算がなければ白旗を掲げるのもよいだろう。それももう1つの「生きる道」であろう。
しかし、20世紀の前半に白人に対して有色人種である日本人が戦わずして降伏していたら、その末路はどうだっただろうか。
ABCD包囲陣を前にして、1941(昭和16)年12月の時点で、仮に日本が米国に屈伏したらどうなっただろうか。日本人にとって唯一の参考は、それまでの米国や西欧諸国が有色人種に対して取った行動のパターンである。すなわち、米国内における黒人やインディアンの扱い、また米国外ではフィリピン戦争などでの米軍の行動である。もしそれが日本の受ける待遇であれば、それは日本にとって「生きる道」ではない。まさに屈辱の「死の道」であった。
これは要するに、英米による日本潰しのシナリオだった。日本が追い詰められて戦争を始めるようにさせる。そうすれば、日本を滅ぼす口実ができるということだった。開戦直前の1941年8月に、ルーズベルト大統領は英国の首相のチャーチルに「こちらから宣戦はしない・・・開戦への口実を得るために挑発を進めるのだ・・・」と言った。4カ月のち、チャーチルは真珠湾攻撃の夜の日記に「勝った」と書き、また日本側からの開戦は「英国帝国のめったにない幸運」であるとも書いた。
オランダのウィルヘルミナ女王は、日本人を「ネズミのように溺れさせる」と言った(ソーン、前掲書による)。欧米側の計画は、日本を滅ぼしたい、ただ日本が立ち上がってくれたほうがいい、そうなれば簡単にやっつけられる、というものであった。日本がいよいよ開戦すると「これで問題は終わった、よかった」というのが米英側の空気であった。開戦の時のタイム誌の編集部の雰囲気をセオドア・ホワイトという記者が「皆が大喜びだった・・・特に私は喜んだ・・・」と言ったと、ソーンは書いている。
1922(大正11)年および1930(昭和5)年の軍縮会議で当時世界の3大海軍国であった英・米・日の保有数として戦艦が5・5・3、補助艦(巡洋艦など)は10・10・7と決められた。どう考えても英米は1単位であるので、事実上は戦艦は10:3、補助艦は20:7で日本が不利ということになる。挑発というのは、こういうものを指す。
日本はこの数の劣勢を補うために1937(昭和12)年より武蔵、大和などの戦艦を建造した。世界最大の戦闘能力を有し、戦闘艦としては世界で初めて冷房装置があり、乗員の居住性においても最高のレベルを誇っていた。しかし、時しも大艦・巨砲は時代遅れとなり、航空機の時代に移行しつつあった。
しかし、航空機が優位という戦術の変化を証明したのは、ほかでもない日本の2つの航空戦であった。1つは真珠湾攻撃において米太平洋艦隊に事実上の壊滅的な打撃を与えたこと。もう1つはマレー沖で英国の戦艦2隻を沈めた航空戦だった。
それまでの戦史で、航空機によって艦隊が全滅する、という例はなかったし、そういう戦法を考えた人もいなかった。それを世界の戦争の歴史で初めて日本は実行したのであった。(米国空軍は後にドイツの艦隊を撃滅したが、今日に至るまで、これらの3つが空軍による艦隊撃滅の例であるらしい)
当時英国は、シンガポールを基地とする艦隊によりアジア全体を支配していた。その頃の戦艦の主砲で40〜60キロは砲弾が届いたので、全アジアのどこでも英国に刃向かおうとすれば、直ちに主要都市は焼け野原にされるのだった。シンガポール艦隊を擁する英国を敵に回すことは、アジアでは不可能だった。
この英国の威信は、日本の艦載機による攻撃で一瞬のうちに消失し、英国はアジアで無防備になってしまった。
日本の最新の航空母艦は、エレベーターで航空機を飛行甲板に上げるように設計されていたが、英米のものは、ウィンチでスロープを引っ張り上げるようになっており、その能率は比較にならなかった。
「リメンバー・パール・ハーバー」とは、日本ではもっぱら「卑怯な戦法」というイメージであるが、米側の受け取り方はやや違って「反省」の色合いがある。
なぜなら、日本側の空母6隻、来撃機400による攻撃を米国は察知できなかったからである。実は日本の空母艦隊がウロウロしているのは、米側には分かっていた。しかし遠距離でもあり、無視していた。数万トンの空母が6隻、それに護衛の巡洋艦や駆逐艦からなる大艦隊である。頭から尻尾までたぶん40キロ以上にも及ぶものをどうやっても隠せるわけがない。米側は、日本の空母艦隊の動きを十分に知っていた。
たぶん、日本は攻撃して来るのだろう。やらせておけ、かかって来たらたちまち全滅してやる、ということだったのだろう。
また、もう1つ米国が見落としたのは、ゼロ戦の行動半径が英米の最新型の航空機に比べて並外れて大きかったことであった。それで、遠くにいるので安全と思っていたが、じつはゼロ戦の行動半径内だったのである。また日本が、それまでの戦史に前例のない航空機による艦隊の攻撃を計画していたことは知るすべもなかった。
航空機が1艦隊を攻撃、沈没、全滅に至らせるなどということは、戦史にいまだかつてなかったことだったからである。その根底には、日本の航空機の優秀さと高い信頼性という要素があり、それは米国の想定外であった。ゼロ戦は航続距離が長く、それまでの常識的な攻撃範囲の倍近くあった。だから安心していたら、突如現れたのである。
劣等民族のやることである。大したことはない。日本の飛行機は真っすぐには飛べない、日本兵は弾丸を真っすぐに撃つ能力もない、というのが米英側の宣伝文句だった。宣戦布告が遅れたからいけない、ということが日本のジャーナリズムでは盛んに言われている。1907年のハーグ国際会議で、宣戦布告ないしは最後通牒(つうちょう)が必要と決められたが、その後も布告のない戦争はいくらでもあり、やがて誰も宣戦布告など行わなくなった。
戦後は、朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、最後まで宣戦布告なしである。ハワイでは、日本が真珠湾を攻撃するという噂(うわさ)が盛んであったという。FBIがこの噂を中央に連絡したかどうか問題となり、FBIのハワイ支部はワシントンに何度も連絡したが無視されたことが申し立てられている。(William W. Turner, Hoovers’FBI, Dell Books)
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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