「きけ わだつみ」現象
あまり取り上げられていないことであるが、岩波文庫版の『きけ わだつみのこえ』の巻末に編集者の苦悩がつづられている。この書の編集に当たって、主として東大の教授からなる担当者たちが悩んだ大きな問題があった。
それは、戦没学生の手記の中に戦争を支持するような文言が多く存在することだった。自分は国のために戦って、英米の驕慢(きょうまん)を挫(くじ)く・・・軍服を着た自分を鏡に映して誇らしく思い・・・というような言葉が、学生の手紙の中に出てくるのである。
教授たちはそれらの言葉を『きけ わだつみのこえ』に入れるかどうかで悩んだ。原文のままを印刷すれば、これは「反戦文集」でなくなる。学生たちの多くは、国のために戦うのを誇りにしているからである。結局、それらは一切削除することにした。なぜなら「これらの言葉は彼らが間違って信じていたものであり、それ故に彼ら自身の言葉ではあるが削除すべきである」という「苦渋の決断」が下されたと言っている。
大きなお世話である。いくら苦渋の決断をしたかもしれないが、『きけ わだつみのこえ』は、それらを削除した時点で歴史的文書でなく、宣伝文書になってしまった。いま自筆の手紙が読めれば、「米英の不義を討(う)つため、戦いに赴(おもむ)く戦士の決意」などが披歴されているのを見て、世間は驚くだろう。逆の印象を与えるのである。
『きけ わだつみのこえ』が与える印象によると、戦没学生たちの全てがはっきりとした反戦の意識を持っていた。また、各大学の中にはそういう意識が透徹していたということで、そのような民衆の総意に反して軍部は戦争を強行した、ということになる。
編集は削除も自由自在なら、そういう印象も自由に創造できるというものである。このような「きけ わだつみ」現象が、戦後の「捏造(ねつぞう)歴史観」の特長である。だが、これをやっていれば、あらゆるものがまともに見えなくなってしまうだろう。
日本を潰してしまおうとする、西欧諸国から押し寄せる圧迫に対して、 日本は滅びることを承知で立ち上がった。それはほぼ国民の総意であった。だから、あの大規模の戦争を米英を相手に継続できたのだ。
『きけ わだつみのこえ』の恣意的な編集については、すでに遺族から個人のプライバシーに関して訴訟も起こっている。ただ思想的な削除や改変に関しての訴訟はない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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