日本有罪論の根拠
もちろん、簡単な方法があって、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)以後のすべての植民地獲得戦争は罪であるとし、それ以前は無罪とするのである。これなら英米は優等生、日本は悪者ということになる。これは、実質的にはほぼ従来のキリスト教会が取っている態度である。これは極東国際軍事裁判で採用された論理でもある。裁判と法理論の場では、どこかに区切りをつけねばならないのは当然である。
この裁判では、インドのパール判事が異論をとなえ、日本の無罪を主張したことは有名である(彼は英米の挑戦的な圧迫を論じて、こんなことをやられたら、ルクセンブルグ大公国(人口40万)や、モナコ公国(人口3万)でさえも銃を取ってアメリカに立ち向かっただろう、と主張した)。ケロッグ=ブリアン条約以前は無罪、それ以後は有罪というのは、簡単で便利で分かりやすいのである。現実の世の中では、そうでもしないと整埋がつかない。これを正義として採用せざるを得ない。
しかし、これを宣教学において採用するのは到底無理である。これに従って、日本が醜悪な歴史を持つ有罪国、欧米キリスト教国は正義の国々とする。そこから宣教学的な戦略を構成するのでは、日本宣教の問題を解決したことにならない。とんでもない話である。
一国の文化を把握し、その価値観の形成に当たっての歴史的状況を把握するのが、その国の宣教学の構築の基礎作業である。日本宣教学のためにも、それは必要である。その点において現在決して十分な把握がされているとは言えない。
文芸評論家の福田和也は、日本の戦争責任を表明した「村山談話」を酷評して、世界の政治家で過去の外国統治に関して謝罪をした者などはいない、村山富市首相は一番バカな政治家である、第一、あの「談話」以後、日中関係は改善されておらず、いたずらに中国を居丈高にさせ、日本が卑屈になっているだけである、と言っている。
小生の意見では、村山富市首相はエライと思う。また、それをさせた日本も、歴史に残る意義深いことをしたと思う。彼に続いてキリスト教国もよろしく村山富市首相の模範に倣うべきであり、オランダも英国も米国も、欧米の諸国はすべて日本の模範に倣ってアジア、アフリカに対して謝罪すべきである、と思う。
キリスト教国の側は、自分たちは謝罪など必要はないと思っている。なぜなら「われわれはキリスト教的な愛の精神をもって植民地経営をやった。日本はキリスト教徒ではないから、われわれとは次元の違う残虐な統治をやったに違いない。だから、日本が謝罪するのは当然だ。キリスト教国であるわれわれと一緒にしないでほしい」ということであろう。
すなわち、第三世界の植民地化はキリスト教国のみに与えられた特権と義務である。キリスト教国のみが、愛と慈悲の政策を行えるのである。日本がごとき異教国は、植民地の運営など行うべきでない。今でもそのように考えている。だから、インドネシアのワヒド政権は、謝罪してもらえなかったのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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