李王朝末期の総理大臣の李完用は、それまで朝鮮が中国の保護国であったが、中国の衰亡を見て、この先頼るものとしてロシアは考えられず、 日本は好まず、米国しかないと考えた。そこで王族の全員に長老教会の洗礼を受けさせ、その上で交渉のために渡米した。
今までは中国の下にあったから、儒教を奉じていた。これからは米国だと、米国の保護領になると決めた。そこで、まず王族をキリスト教徒に改宗させたのである。
ところが、ワシントンに行き、タフト陸軍長官(のちの大統領)に会って、桂・タフト密約の存在について聞かされた。すなわち日本は、米国のフィリピン領有について抗議はしない。その代わり米国は、日本が朝鮮を領有することを認めるというものである。こうして李完用総理は米国の保護国になるのを諦めた。かくして朝鮮は日本の保護領となり、やがて併合へと進んだ。
朝鮮は、伝統的に自国の軍隊を持たず、防衛を中国に依存しており、独立国としての要因のうち欠けるものがあった。清の没落を目の前にし、次の保護者を求めるにあたって、選択肢は事実上ロシアと日本しかなかった。もしロシアを保護者に選んだなら、朝鮮ばかりでなく今日のアジアの情勢は大きく変わっていたであろう。
当時、朝鮮では、「ロシアでなく、日本でよかった・・・」という歌が民衆のうちに流行したと呉善花(オ・ソンファ、韓国生まれの評論家、日本に帰化)は言っている。独立国としての朝鮮に日本が突然襲いかかって侵略し、自国の領土としたというのではない。戦責問題とともに、朝鮮半島の併合と統治に関する謝罪の問題がある。
韓国にも、北朝鮮にも、日本に対する恨みの声がある。日本は「国を奪」い「文化を奪」った悪者であるというのである。確かに独立運動を弾圧し、また圧政者として日本の犯した罪は大きい。これらについては、日本人の1人として、そのような残虐な行動をした者がいた、ということに対して顔もあげられない恥ずかしさを感じるものであり、そのことを忘れてはならない。
しかし、朝鮮の併合は朝鮮を救った面もあることを忘れてはならない。わずかでも冷静に歴史を見れば、日本が併合を実行しなければ、まず100パーセントは帝政ロシアの領土になり、さらに数年後に革命が起こり、ソビエト連邦の一部となっていた。もちろん、日本に保護されるよりはソ連の方がよかったというのなら話は別である!
伊藤博文は朝鮮の併合に反対であって、これは経済的に重荷となりすぎるとした。反対派の彼が暗殺されて後、1年にして併合が行われた。
このように朝鮮にとっては、日本の保護国になるか、ロシアの保護国となるか、選択肢は2つしかなかった。そのような認識が頭の隅にわずかでもあれば、朝鮮側からの発言も少しは変わるのではないか。しかし朝鮮側には、そのような歴史認識は皆無のようである。
朝鮮は事大主義(大なるものに事〈つかえる〉)で常に中国に守ってもらい、 最終的な責任は他人に負ってもらってきたのが歴史であった。他者には注文するだけ、文句を言っていれば済んできたのであり、今でもそういう態度が強い。
日韓併合にあたり、苦渋の決断をした李完用も単に「国賊」で片付けられてしまっている。もう少し日本統治時代について客観的な評価が出てこないものだろうか。そのような態度が出てきたとき、韓国は政治的にも社会的にも、より成熟した国になるのではないかと思う。もっとも近ごろ呉善花がかなり今までとは方向の違った把握を試みているようである。ただ彼女は日本語で著述しており、韓国語での出版はしていないようである。
韓国の独立は第2次大戦の終戦の日ではない。米国は朝鮮の歴史にかんがみ、朝鮮に自治能力がないとした。それで日本が敗戦したとき、ただちには独立を与えなかった。1つには、韓国には亡命政府が存在していなかった。なるほど亡命政府を名乗っている集団も上海にあったが、李王朝との関連が明らかでなく、また独立後に実効的に朝鮮半島を統治できるかについて国際的に認知がなかった。つまり、独立後のことなどについて協定を結べる主体であるとの認識がなかった。
だから米軍政府は、亡命政府を名乗るグループを交渉の相手として選ばなかった。1948年までは米陸軍が軍政府を置き、通貨としてはドル軍票を使用させた。そうして3年後にやっと独立を与えた。
朝鮮は軍事占領されており、米軍政府が統治し、国会もなく、大臣も置かれていなかった。日本は日本政府が機能し、国会が機能し、日本の通貨が使用され、主権国家としての機能を許されていたのである。連合軍司令官は日本政府を監督したが、軍政はしかなかった。
日本のクリスチャンが、韓国のキリスト教会の迫害に対して謝罪をすることは大切なことである。しかし、その周囲の歴史的な事柄について無知なままであって、日本の過去をただ忌まわしいものとしてだけ考えて謝罪をするというのは健康なことではない。
それは韓国のためにならないし、また日本のためにもならないのである。自分も1960年代に韓国で説教する機会があり、自分の家族と自分の教会というごく少数のクリスチャンを代表して謝罪を行い、現地の信徒たちとの交わりを頂いたことがある。
韓国は誇り高き国である。その誇りの1つは儒教国家に徹したというところにある。儒教の本家であるはずの中国本土においては、17世紀に満州族である清が明王朝を倒し、中国の主人となった。そのために中国本土の儒教は変形し、満州族の風習が先祖祭儀などに混入した。そういう歴史的な状況がある。
この中国の変化は、朝鮮にとっては儒教の冒涜(ぼうとく)であった。そこで真の儒教国家は、もう朝鮮しかない、自分たちこそいまや「小中華」である、と自認した。そうして儒教のさっぱり徹底しない日本に対しても、これを指導するという責任を感じて、徳川の代替わりのたびに朝鮮通信使を日本に派遣したのである。
もっとも、新井白石は朝鮮通信使のもう1つの理由を見抜いていたらしい。中国はしばしば朝鮮に対して、清皇帝の王子の1人を朝鮮王女の婿として送りたいと申し入れをしていた。そういうことになると、もう完全に中国の一部となってしまう。そこで、朝鮮としては日本とも付き合いがあるので、日本の意向も聞かないと返事ができない、などと言って切り抜けていて、そのための朝鮮通信使という面があったらしいのである。日本側としては、この制度はメリットがなく、さまざまに口実をつけて断ったという事情がある。
日本が朝鮮を併合したとき、果たして朝鮮が独立国であったかどうかについては議論がさまざまある。しかし、公式な関係だけを述べれば、次の諸点が挙げられる。
(1)朝鮮は独自の年号を立てることを許されておらず、清朝の年号を使用した。これは朝鮮が中国の属国であったことを象徴している。
(2)清朝から勅使を迎えるときは、ソウルの迎恩門に朝鮮王が出向き、王は土下座して北京からの勅使を迎えた。これはけだし独立国の態度ではないであろう。
(3)日清戦争の敗戦により清軍が朝鮮から去り、朝鮮が独立すると「迎恩門」を壊して建て替え、これを「独立門」と呼んだ。1897(明治30)年で日清戦争の2年後のことである。1895(明治28)年、清は下関条約において、その第1項目に朝鮮の独立を認めた。つまり、戦いに敗れた中国は日本に対して、今まで朝鮮は中国のものだったが、ここで手放すと宣言したのである。
(4)日韓併合の前に朝鮮が独立していたのは、1895〜1910年の15年間だけということになる。5千年の独立の歴史を持つと自称しているようであるが、それとはほど遠いのである。
(5)礼記には、皇帝七廟、諸侯五廟とあって、諸侯は5代前までの先祖しか祭ってはならない。この点でも、朝鮮王は諸侯としてしか扱われていなかった。
朝鮮は5千年の歴史を持つ独立国家であったが、日本は歴史上初めて、その独立を踏みにじったひどい国である、と韓国の歴史教科書にあるというが、これは事実とは相違するようである。
日清戦争後に朝鮮は、今度はロシアに狙われた。たまたま李王朝の高宗は親露的であり、1896年には「俄館播遷(がかんはせん)」といって国民から追われて、ロシア公使館に逃げ込み、1年ほどはそこから国土を統治したことがあった(朝鮮語の表記ではロシアは俄羅斯。俄館はロシア公館の意)。これはもうどう見ても満足な独立国の姿ではなかった。日韓併合の直前の姿である。
日本の植民政策はどうだったか。日本の内鮮一体化には大きな無理があった。神社礼拝の強要を含めて、その点については弁解の余地はない。しかし、欧米の植民政策との違いは大きいのであって、植民地経営ではなく「国土」として扱かったと見るほうがよい。
現地に大学を作り、成績が良ければ誰でも入れた。また、自由に日本の大学への留学を許して、多数の人材を養成した。皆無に等しかった初等教育を普及させ、それまで使われていなかったハングルを普及させた。これは、西欧の植民地の概念とは違う。
ブルース・カミングズによれば、日本は鴨緑江に当時世界第2のダム(米国のボールダ・ダムに次ぐ)と発電所を作った。また道路については、1945年には中国の道路総延長が10万キロであったのに対し、面積で約40分の1の朝鮮半島に、日本は5万キロの自動車が通行できる道路を建設していた。
鉄道についても、日本は朝鮮半島に6千キロの鉄道を建設した。カミングズは、フランスがベトナム(面積は朝鮮半島の約1・5倍)では、1本の鉄道線路をハノイからサイゴンまで(約千キロ)敷設したにすぎない、と言っている(Bruce Cumings, Korea's place in the sun, W.W.Norton, New York 1997)。これは「搾取」を基調とする政策ではないであろう。植民地ではなく、むしろ「国土」として扱ったのである。
通常は禁句となっていることであるが、日本のアジア経営の背後にはやはり「繁栄を領(う)け合おう」とする動機が皆無ではなかったと言えるのではないか。このような道路、鉄道、電力、教育などのインフラの整備が朝鮮半島と台湾の近代化に与えた影響は大きい。だいたいアジア・アフリカで近代化に成功したのは、日本以外では韓国と台湾のみである。
キリスト教国が統治した所は、今もなお塗炭の苦しみのさ中にある。現在第3世界の近代化というテーマに世界は行き悩んでいるが、この時にあたって日本の台湾・朝鮮経営とその成功について公平に分析し、そこから学ぼうとするならば、大きな成果が期待できるのではないだろうか。
日本が併合したときの、朝鮮のありさまはどうだったか。イサベラ・バード(英国の女性旅行家)はモンゴル系の諸民族の生活の調査のために19世紀末に4年を費やして朝鮮、中国、日本また蒙古を旅行した。
バードのソウルの印象は、首都であるというのに、道路は荷を担った牛がすれ違えぬほど狭い。また人々は糞と尿を、家の前のその狭い道路の穴や溝に排泄している。イヌが溝に入り込んで、糞を食べている。その悪臭と不潔に世界でこれほど汚い国はないと思った、とバードは言う。もっとも、のちに北京を訪れてこの印象は訂正される。中国はもっと汚かったのである。(イサベラ・バード『朝鮮紀行~英国婦人の見た李朝末期』時岡敬子訳、講談社学術文庫)
これが併合の10年前のことである。併合の後、日本は多額の投資をして上下水道を引き、各戸に便所を設け、都市としての整備を行った。
なお、中国については、上海のありさまを高杉晋作が『遊清五録』に書いている。人々は糞を家の前にする。ブタがそれを食べに来る、イヌが来てブタを追い払い、その人糞を食べる。カゴを背負った人間が杖でそのイヌを追い払い、人糞を拾って背中のカゴに入れる。彼は肥料としてそれを農村に売りに行く。これほど不潔な国はない・・・。高杉は、はるか自分の国を考えて日本はつくづく「神州清潔の民」であると言う。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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