著者は、御巣鷹の尾根で出会った中埜肇(なかの・はじむ)さんの十字架。その十字架を追って神戸の地へ飛んだ。
日本航空(JAL)123便の事故で亡くなった肇さんは、阪神電鉄専務取締役鉄道事業本部長を務め、1984年に阪神タイガースの球団社長に就任した。実業家として多くの功績を残した人物だ。肇さんの次男・中埜克(まさる)さんが、31年目の思いを特別に打ち明けてくれた。事故直後の家族の対応や、悲しい父親との対面、最後には安全への思いと社会のモラル、教育への願いを語ってくれた。
仕事の現場で聞いた事故の第一報
建設会社に勤めていた克さんは当時33歳。「たまたま家内が、飛行機が事故を起こしたらしいと言いましてね」「あの日は確か月曜日でした。まさか父親が乗っているとは思いませんでした」
誰もが「まさか」と思ったという。克さんは「事故が起きてから墜落現場の特定が著しく遅れ、母親から父親が乗っていると電話があったのは午後9時ごろだったと思います。乗客名簿がカタカナで放送されました。それも、深夜だったように記憶しています」と続ける。
肇さんは、東京から大阪の伊丹空港へ帰る途中だった。会社の運転手が社長の到着を伊丹空港で待っていた。運転手からも「社長の飛行機が事故らしい」と連絡が入る。克さんは「すぐに動いたのはマスコミでした。当時は日航が一番遅かった」と率直な思いを述べる。
123便には、偶然にも知り合いの著名人や親戚が乗り合わせていた。肇さんはこの日、運輸省で行われた日本民営鉄道協会(民鉄協)の会議に急遽(きゅうきょ)出席するのため東京に出張、その帰途に阪神電鉄の常務と共に123便に乗っていた。
「急な東京行きで帰りのチケットがJAL便、ANA便、両方ともキャンセル待ちだったのか。それで、たまたま取れたのがJALだったのか・・・」。克さんは、今となっては定かではないと言う。
マスコミの対応に追われた日々
阪神タイガースの社長が事故機に乗っていたと分かると、マスコミが夜中にもかかわらず自宅に集まり大騒ぎになったという。「夜も煌々(こうこう)とライトを照らし、近所の人に迷惑になると気が気でなかった」と言う。結局、どこへ行くにもついて来て、特にスポーツ紙は必死だったという。
「かなり遅くに日航から話が来たが、墜落したとは、なかなか分からず、錯綜(さくそう)していましたね」。克さんは翌日、日本航空が手配したチャーター機で東京へ向かい、事故現場となった群馬県へ向かった。しばらくして、弟、兄が来て克さんの妻と母トシさんが到着したという。「よく飛行機に乗るなと言われたが、抵抗はなかった」と語る。
壮絶過ぎる事故現場
123便は猛スピードで群馬県の山岳地帯を右旋回しながら「ほぼ真っ逆さま」に急降下していく。日本航空の安全啓発センターで展示室の解説を行う安全推進部の辻井輝マネージャーは、「132度右翼を下に向け、41度の角度で山中に激突しました」と状況を説明する。「その速度は時速400キロ以上で、墜落の約10秒前は、3千メートルほどの高度を飛行していたが、わずかの間に、1500メートルまで降下しました」。右翼付近が尾根をかすめ、山をえぐり、反動で機体は、ほぼ裏返しで激突した。衝撃は数百Gといい、瞬時に人間が分解されてしまう圧力に相当する。御巣鷹の尾根に墜落した123便は粉々になって、ほとんどが焼失し、残骸となって山肌を埋め尽くした。
克さんは、父・肇さんの遺体を兄弟で確認した。母トシさんには見せることができなかったという。群馬県藤岡市の旧市民体育館へ次々に運び込まれて来る乗客の遺体や遺品。その数はあまりに多く、亡骸を確認しなければならない遺族の苦痛、悲しみは想像を絶する。克さんは当時のつらい記憶も語ってくれた。「医師は、墜落の衝撃で体内から内臓が飛び出てしまうと言う」「だから、遺体が運び込まれて来る体育館には、まともな状態のものはなく、ほとんどが肉片か、燃えた炭のような形でした。何人もの乗客が重なって一体となり、誰が誰か全く分かりませんでした」
肇さんの遺体は、事故後1週間もしない間に見つかったという。「遺体と称するものが出ました。歯形の資料を会社から取り寄せていました。着ていた服とネクタイと阪神タイガース50周年のネクタイピンが見つかりました」。遺品を見て「間違いない」と思ったという。ミイラのように布で巻かれた遺体は顔の一部と頭が少し見えていたが損傷が激しく、最後まで、母に見せることができなかったと当時を振り返る。
「火葬後に『骨上げ』をしますが、わずかに積まれている状態でした。母はやっぱり体の一部しかなかったのだと嘆きました」。遺族が受ける悲しみ、ショックはどれだけ大きかったか。当時は遺体の収容作業で警察や消防、自衛隊が現場へ入り、医師も関東中から集結し徹夜で対応に追われた。葬儀はキリスト教式で行われた。特に熱心にキリスト教を信仰していた母トシさんの意向だった。
とにかく真面目な父だった
克さんは、亡くなった肇さんの思い出を「父は技術屋でした。野球のことはよく分からない。現場にも口は出しませんでした。家でも仕事の話はしなかった」と語る。克さんは当時、仕事の関係もあって両親と同居はしていなかった。阪神タイガースの社長に就任することも、当時の滋賀県の現場で隣の所長から初めて聞いたという。「今度のタイガースの社長が中埜さんというが、何か関係あるのですか?」。笑いながら克さんは、「真面目な父でしたね」と懐かしそうに述べた。
戦時中、将校だった肇さんは、戦争が終わり国鉄勤務を希望したが、GHQの政策(職務追放)で就職がかなわなかった。民営の阪神電鉄に入り、阪神電鉄の専務取締役になってからも、鉄道会社ということから安全への思いは人一倍強く、朝一番の電車で運転席を見に行く熱心ぶりだったという。日曜日には会社の車の運転手を休ませ、自分で運転をして大好きなドライブを楽しんでいた。「公共事業も多い会社でしたから、何事もきちっとしていました」。真面目な人柄を感じさせるエピソードだ。
自分の知らない世界は、自分で学び、若い社員と共に勉強会をよく開いていたという。車も私用では絶対に使わない。会社の物も使わない。克さんは、そんな父を「くそ真面目な性格」と笑いながら紹介した。
そんな肇さんの口癖は、「とにかく勉強だけはせえよ」だった。真面目な父と子育てに励んだ母トシさんの家庭は、子どもへの言葉遣いや、生活の知恵、必要なことを多く残している。中埜家は、家族同士に対する言葉遣いも第三者がいるときは敬語だったという。克さんは「普通だと思っていました」と苦笑い。でも、今となって親から学んだことが役に立っていると感謝の思いを述べてくれた。
肇さんの趣味はドライブ。ゴルフも好きだが、接待や付き合いを進んで好むタイプではなかった。ビジネスの話は昼間に会社で話す。遊びは自分流のスタイルで楽しむことが好きだった。中埜家は経営者ぞろいの家系だが、広告チラシの裏は字を書くことができるし無駄にしてはいけないと祖父から学んだ。稼ぐことの大変さ、物の大切さも父親から教わりました。克さんは「融通の利かない堅物の親父でしたね」と、笑いながら語る。
しかし、安全をモットーとした肇さんは奇しくも「安全を願いながら航空機事故で亡くなってしまった」と、父の思いを締めくくる。克さんの手には1つの写真があった。肇さんが亡くなる前に、克さんの妻と弟の妻と一緒に写った雑誌の特集だ。義理の娘に囲まれて、肇さんは満面の笑みを浮かべる。「優しいお父さん」と、家族から慕われた存在だった。
「今は分からんけど年取ったら分かる」と、よく言われたそうだ。肇さんは63歳で亡くなった。克さんは今、65歳だ。「父の年を越えました。健康な人でした。お酒はほとんど飲まなかった。事故さえなければ長生きしていたのかな」と、父への思いを口にする。肇さんは大柄で180センチあったという。ただ1度、玄関で寝込んだことがあったらしい。真面目な肇さんにとって、家や家族は一番心を許す場所だったに違いない。
克さんは、「自分の中に父の存在がそこまで強くなかった」と打ち明ける。「弟は一緒に住んでいましたが、私の生活の中には両親はいなかったのです。事故後、半年、1年と父がいない生活が続いても、それほど違和感はありませんでした」。人には冷たいなと言われたこともあるという。
それでも、克さんは父がいなくなり不便を感じることがあるという。亡き父が命を落とした最期の場所である御巣鷹の尾根には、母トシさんと1回登っている。当時は、まだけもの道のような山をぜいぜい言いながら登ったという。克さんはマスコミに対応するのが好きではない。事故とは関係がない時期に大好きなバイクでツーリングを兼ねて山へ行っている。来年くらいには子どもたちや孫を連れて慰霊登山へ行きたいという。「1度は見ておけよ」。そのような気持ちかなとつぶやいた。
克さんは事故後、日本航空と直接の事故原因となった圧力隔壁の整備ミスの大本である米ボーイング社へ示談交渉に臨んでいる。しかし、ボーイング社は「総括窓口はJAL」とする回答を繰り返すだけで、結局実現はしなかった。
「父親を返してくれればいい」。それが遺族として一番の思いだと、克さんは言う。一体、あの機内で何が起きていたのか。そして、肇さんはどのように最期を迎えたのか。「ぶつかった瞬間は即死だろうけれど、あの高度から落ちて、相当なG(圧)を感じるのだから、一般人は気を失うでしょうね」。60歳を過ぎた父が耐えられたとは思えないと複雑な心境を語る。
克さんは「臆測の域を出ないが」と断った上で、「むしろ、気を失ってくれていた方がいいな。仮に意識があったら、いろいろなことを考えたのでしょうね」「524名の方を思うとね・・・」。事故後、生存者の証言では周囲に生きていた人がいたともいわれ、克さんは「時々、もっと早くに救助が入ればと思いますね」と振り返った。
「遺族は家庭事情が異なります。亡くなったのが、ある人は父親だったり、子ども、母親だったりと違う訳です」。克さんは日本航空とかなり遅くに示談が成立している。非常に難しい問題で、考え方は家族の間ですら異なるからだ。熱心に対応する日本航空の担当者もいたという。「死をお金で換算することは嫌だが、もうそうするしかないですよね」。克さんは、遺族には余裕も気力もなかったと当時の厳しい現状を赤裸々に告白してくれた。「うちは父親でしたが、子どもが亡くなったとなれば、感情的になったと思います」。上野村にある慰霊の園に話が及んだときだった。小さな展示室には、血で染まった子どものサンダルやミッキーマウスのぬいぐるみが展示されている。「子どもだったら状況がまた違った」。言葉が詰まる瞬間だった。事実、123便には多くの家族連れ、小さな子どもが搭乗していたのだ。
熱心なクリスチャンだった母トシさんは、キリスト教主義の自由学園(東京都東久留米市)出身だ。自宅には聖書を学ぶ人がいつも来て、讃美歌を歌っていたという。いわゆる家庭礼拝、聖書研究会だ。日本基督教団芦屋三条教会へよく通ったと懐かしむ。「吉田先生という牧師に良くしていただいた」と語りながら、克さんは書斎の本棚へ案内してくれた。そこには自由学園の創立者、羽仁もと子の著書が並ぶ。トシさんは自由学園の教育を大切にし、西宮市にあった旧自宅を開放して「幼児生活団」(幼稚園)を開いた。「子どもは生活団で育てる」がモットーだったという。そんなトシさんの影響で、肇さんも徐々にキリスト教への関心が深まり、信仰書や聖書を読むようになった。
肇さんのカバンの中には、讃美歌のコピーと阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」が入っていた。好きな賛美は讃美歌312番「いつくしみ深き」。他にも2曲あったという。「良く歌っていました。家に残された形見のカバンの中に讃美歌が入っていましたよ」。123便の遺品から肇さんが事故当時、所持していたはずのカバンは見つからなかったが、きっと讃美歌と六甲おろしはそばにあったことだろう。信仰と自分の会社への愛情を感じる貴重な話だった。
克さんは、肇さんの信仰についても語った。それは亡くなる何年か前のことだったという。「リタイアしたらイスラエル聖地旅行へ行きたい。教会へ行こう。洗礼も受けたい」と話していたという。その話は、トシさんから聞いたという。
いろいろなことに興味を持ち、伊丹市の裁判所で調停員も務めていたトシさん。「これです」と自分の考えを持ちながら、3人兄弟をしっかり育て上げた。祈りの人だったトシさんは、「神様とは、教会の中だけではなく、直接話せるのだ」と、プロテスタントの信仰を誇っていたという。教育熱心なトシさんの思いで、克さんたち兄弟も、その子どもも、孫も生活団を卒業している。包丁の使い方から、帯の締め方まで男も女も関係なく、父は「鉋(かんな)」を、母は「台所」を教えてくれたという。
そんなトシさんは、2008年に83歳で亡くなった。永遠の命を約束された信仰者として天へ旅立ち、肇さんと再会したことだろう。
安全への思い 社会のモラル
建設会社で勤めていた克さんも安全に関わってきた。「飛行機事故の確率はわずかですが、起きたら大変なことになる」。克さんは、ヒューマンエラーや問題が起きることを前提に、いかに対策を講じるかが鍵だと話す。
「東京オリンピック(1964年)の頃は、命より生産が優先の時代でした。今はそんな時代ではない。企業は企業防衛のために設備が完璧なら、あとはヒューマンエラーです」。静かだが強い思いを言葉にする。「働く人がどこまで実践できるか、そして間違いをきちんと正せる関係かどうか」。ヒヤリ・ハット運動を例に諭すように自身の願いを述べた。
「新幹線の方が怖い。あれだけ多く人を乗せ、事前のチェックはないからね」。300キロという速度を考えると事故が起きれば大惨事となる。日本は、時間通りに電車が来る。飛行機も同じだ。故に、事故につながらないかと心配をする。そして利用客が言いたい放題なのはどうなのだろうか? この点も考えていくべきだと指摘した。
「社会モラルを変えないと成り立たなくなる」。克さんは「社会の風土」という言葉で表現した。
教育や子育てに通じることも多く、便利になり過ぎて、物があふれ、選択肢がたくさんあることが本当に良いことかと問うのだ。道徳や家での躾(しつけ)について思いを語ってくれた。最後に克さんは、「社会が変われば安全も変わります」と語った。
大きな企業の社長として時代をリードした肇さんは安全を訴え、ただひたむきに会社に仕えてきた。熱心なクリスチャンだった妻トシさんに支えられ、信仰を抱いた肇さんは、悲しくも御巣鷹の尾根で命を落とした。今回、肇さんの十字架を通して、次男の克さんに会うことが許された。そして、肇さんに「そっくりだ」と言われる真面目で温かな克さんがいた。
取材を終えて東京へ向かう飛行機には、阪神タイガースのユニフォームを着たファンが大勢搭乗していた。主翼には大きな虎のマークがプリントされている。機内でずっと虎のマークを見つめていた。「始まりは十字架。帰りは虎」。肇さんの「讃美歌と六甲おろし」を思い出す。信念とは何かを教わった気がした。
事故が引き起こした悲劇、悲しみは次世代に語り継いでいかなければならない。同時に安全への誓い、安全とは何であるかを、今一度私たちは考えて生きていかなければならない。肇さんが残したものは大きい、そう感じる。キリスト教では「死は終わりではない」と説く。「誠実さ、真面目さ、愛情」。残してくれたものは今も生きている。社会に欠けた何かを訴えているようにも感じた。
「あの事故があって、今の空の安全がある」。御巣鷹の尾根で出会った遺族の言葉が心に響いた。安全を願い、次世代に良い社会づくりを期待したい。