あの十字架にもう1度会うために
8月9日、群馬県上野村へ向かった。四方を美しい山々に囲まれたこの村は、名物の鮎(あゆ)の友釣りを楽しむ人でにぎわっていた。31年前の夏、この村が一瞬にして航空機事故の凄惨(せいさん)な現場となるとは誰も予想しなかったはずだ。この事故を振り返る。
1985年8月12日、羽田空港を離陸した日本航空(JAL)123便は乗員乗客524人を乗せ、大阪の伊丹空港を目指した。しかし、飛行中に客室の気圧を保つ圧力隔壁が破損。機内の空気は瞬時に後部から吸い出され、結果、飛行機のバランスを保つ垂直尾翼のほとんどが吹き飛んでしまった。破損した垂直尾翼付近には飛行機の生命線ともいえる油圧系統が設置されていたが、4系統ある全ての油圧システムが、垂直尾翼と共に破損した。
123便は全く操縦が利かない「操縦不能(アンコントロール)」に陥る。パイロットは必死に操縦を試みるが、機体は激しい急上昇、降下を繰り返し、左右に揺さぶられながら迷走を続けた。トラブル発生後、最大で「30秒足らずに1500メートルも降下」。日本航空の解説だ。機体は通常の飛行ルートから外れ、高度を落としていく。この事故の特徴は、操縦不能に陥りながらも機体が32分間も飛び続けたことだ。多くの乗客は、死を覚悟し機内で遺書を書き残している。
123便は猛スピードで山岳地帯へ向け急降下。夕暮れに染まる群馬県の山々を縫うように飛行しながら、午後6時56分26秒、人知れぬ山の中に墜落した。520人が死亡、4人が奇跡的に救出された。「ジャンボ機は落ちない」「安全だ」というジャンボ機安全神話は一転、史上最悪の航空機事故となり、日本中に衝撃が走った。事故調査委員会の発表によると、主原因は、製造元の米ボーイング社の不適切な修理(圧力隔壁の連結部分の整備不良)と公表された。
上野村から険しい山道へ車で入り、途中、何度も落石をかわしながら、やっと登り詰めた先に、墜落現場となる通称「御巣鷹の尾根」の登山口がある。ここからは徒歩で入山だ。毎年多くの遺族や関係者が慰霊に訪れる場所として有名な山だが、今回はある「1本の十字架」を目指して登った。
山道は階段や手すりが整備されている。この山を守り続けてきた遺族や管理人の黒沢完一さん、日本航空の社員らによって手入れが行われている。やっと人がすれ違えるほどの狭い道だ。123便が墜落した8月12日は「慰霊登山」に訪れる遺族や関係者、報道陣で混雑するが、その数も年々減少しているという。この日もほとんど人がいなかった。
登り始めてすぐに山の管理人、黒沢さんに会う。長い間、この地を守り続けて来た黒沢さんは「遺族で知らない人はいないよ」と笑顔で語る。毎日、山を回りながら管理を続けているという。黒沢さんは「今は何もないでしょ。当時はこの辺りは全部、機体の残骸や倒れた木ですごかった」と話す。その言葉の通り、今も周辺の木々は若く、地滑りの跡のように山肌が見えていた。
123便は未開の山奥に墜落した。翌日から開始された救助活動は、藪(やぶ)をかき分けながら行われたという。ふと下を見ると、細かい機体の破片が無数に落ちていることに気付く。「どうしてもね。まだあるよね」。黒沢さんによれば、雨が降ると土の中から出てくるという。白い繊維質の物や、ハニカム質の破片だ。最近は減ったが、10年くらい前は十数センチほどの残骸がよく見つかった。3年前には無傷のライフジャケットが沢で発見されている。
「墓標は、亡くなった乗客が見つかった場所」。その説明の通り、登るにつれ小さな墓標が幾つも点在していた。「ありがとう」「パパ大好きだよ」。父親を亡くしたのだろう。遺族が慰霊に来たばかりか、花が供えられている墓標もあった。享年27歳、29歳、34歳・・・。刻まれる乗客の年齢に言葉を失う。乗客たちはどのように最期を迎えたのか。満席の機内には大勢の家族連れ、サラリーマンが座っていたことだろう。想像するだけで胸が締め付けられる思いがした。
黒沢さんは、「墜落した日(8月12日)にマスコミが来ることはあるけど、おたくは珍しいね。でも、ちゃんと撮ってあげて。ご苦労さん」と優しく語り掛ける。手には清掃に使うペットボトル。下山する遺族に「ご苦労様です。気を付けて下りな」と声を掛ける。すれ違う遺族の顔にほんのり笑顔が見られた。
静まり返った山中でスゲノ沢のせせらぎが響き渡る。風でゆれる木々、木漏れ日が美しい。息を切らしながら登り詰めた山道のすぐ脇に、小さな十字架の墓標が立っていた。「中埜肇(なかの・はじむ) 昇(召)天の地」。手製の十字架にそう刻まれていた。5Gという標識のすぐ下だ。
15年前にも筆者はこの山を訪れている。123便が墜落した日、小学1年生だった私は、夏休みで長野の祖父母宅に遊びに来ていた。事故のニュースは今でも鮮明に記憶している。子どもながらに衝撃的だった。事故への思いが不思議と消えることなく、年を重ねるにつれ、遺族の思いや悲しみに何か寄り添いたいという気持ちへ変わっていった。
バイクに乗ってこの地を初めて訪れたのは2001年6月だ。雨が降る中、この場所で出会ったのが中埜さんの十字架だった。「どのような人なのだろうか。十字架ということは、クリスチャンだろうか」。忘れもしない不思議な出会いだった。
頂上付近で遺族のSさんにインタビューすることができた。いとこを亡くしたSさんは10年くらい前から登り続けている。あまりにいろいろと思うことがあり一言で言えないとし、「風化はさせたくない」と言葉を詰まらせた。夫を亡くしたという女性は「登るのはつらい。でも、来ないといけないのです」と語る。この地は多くの人の思いが寄せられた特別な場所だとあらためて感じることができた。快晴の空高くにジェット機の音が聞こえる。小さく見える飛行機を雲のかなたに見送って、この地を後にした。(つづく)