内村鑑三の明石訪問100年を記念して、10月17日には兵庫県明石市で、赤江氏と岩野祐介氏(関西学院大学神学部准教授)による講演会(明石内村鑑三研究会主催)が行われた。この講演のために来日していた赤江氏に、『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』について話を伺った。
出版されて反応はいかがですか?
社会学、宗教学、歴史学、思想史など、いろいろな分野の方々から反響を頂いています。キリスト教史だけではなく、近代仏教研究でも参照して頂くことがあり、うれしく思っています。
時々、無教会の中心は雑誌ではなく、あくまでも集会であるというコメントを頂くことがあります。たしかに現在の無教会には、「エクレシア」(教会)を「集会」と翻訳するような、集会こそが信仰継承の場であるという考え方があります。それに対して、本書では「集会」と「雑誌」双方の役割に注目しながら、集会中心の考え方が戦後に強まることを指摘しています。
なぜこのテーマで本を書こうと思われたのですか?
私は岡山県の出身で、福音派のキリスト教という家庭環境で育ちました。子どものころから、家庭や教会で語られることと学校や新聞などで語られることが違うなぁ、と感じていました。例えば、教会で学ぶ創造論と学校で学ぶ進化論の違いなどです。また、岡山は地方都市ですから、キリスト教会というのは地域社会の中でどこか異質なところがあると同時に、さまざまな社会活動を通じて地域に根ざしているところもあります。私は、キリスト教と日本近代社会について研究してきたわけですが、その根底には子どものころに感じた齟齬(そご)の感覚があるのかもしれないと思います。
その後、筑波大学の修士課程で矢内原忠雄の信仰と学問と政治について学ぶ中で、無教会運動に興味を持ちました。そして、それを生み出した内村鑑三とはどんな人物か、不敬事件とは何かを考えるようになりました。その中で、内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁、大塚久雄という無教会派知識人の系譜と、彼らを支える読者の広がりが見えてきました。
中心となっているのが、無教会派におけるキリスト教信仰とナショナリズムのつながりですね。
これまでの研究では、内村の不敬事件や矢内原事件などについて、彼らの国家批判の側面が強調されてきました。でも、彼らの著作を読むと、天皇への尊敬、愛国心やナショナリズムがはっきりと感じられます。それを無視して彼らを過度に英雄化してしまうと、かえって彼らの国家批判の意義も理解しにくくなってしまいます。
例えば、矢内原が1937年に矢内原事件で東京帝国大学を辞任するきっかけとなった日中戦争批判は、やはり当時としては際立ったものだと思います。でも、矢内原は、同じ年に「民族と伝統」という論文で「天皇主権」と「臣民翼賛」を支持しつつ、「日本民族は天皇の臣民であると共に、天皇の族員である。之が日本民族の伝統的なる民族感情であり、国体の精華である」と論じています。また、戦時中には、「無教会主義精神に基づく全体主義」を語ったりしています。
私は、矢内原のナショナリズムは、当時の軍国主義的ナショナリズムとは全く違うものだと考えています。矢内原は、天皇主権や全体主義をキリスト教的に意味付け直すことで、それらを批判しようとしています。そうした「キリスト教ナショナリズム」は、同時代のナショナリズム言説に近づくところがあり、それ故に危うさもあります。しかしそれは同時に、検閲などの制約の中で、同時代の人々の耳に批判の声を届けるための戦略だったのだと思います。そのあたりはまだまだ検討する余地があると思っています。
もう一つがメディア論としての無教会という視点ですね。
無教会とは何かということを考えたときに、それはまずは雑誌の名前だったわけです。1893年の著書『基督信徒のなぐさめ』では、無教会は「教会から捨てられた」という否定的な意味合いで使われていました。でも、1901年には、自分の雑誌の名前として、ポジティブな意味合いで使われます。その雑誌『無教会』の最初の社説で、無教会に「教会のない者の教会」という定義が与えられます。そして『無教会』が「教友の交通機関」と呼ばれ、さらに「紙上の教会」と言い換えられるのです。
この『無教会』は、読者からの感想などを掲載する投書雑誌でした。『無教会』は18号で終刊になりますが、30年続いた『聖書之研究』にも投書欄がありましたし、その後も内村は何度も投書雑誌を試みています。読者たちが投書をするための場を作り続けているのです。そして無教会第二世代の指導者たちは、読者から書き手に変わっていった人々でした。つまり、雑誌は読者を訓練し、書き手へと変えていく場でもあったわけです。
当時、投書というのは既にあったのですか?
文芸雑誌では、投書という形態は一般的に見られるものでした。内村には『萬朝報(よろずちょうほう)』という新聞で働いた経験があり、しかも郵便制度や印刷技術が整い始めていました。個人で出版社を作り、雑誌を編集・刊行することが比較的簡単にできるようになった時代だったわけです。キリスト教でいえば、植村正久(1858~1921)や海老名弾正(1856~1937)も雑誌を作っています。ただこれらは、教団の見解を示すような機関誌、広報誌的な性格を持っていました。それに対して、雑誌を中心に投書や読者会や講演会など、読者がさまざまな形でコミットしていくことができる仕組みを作ったところに内村の新しさがあると思います。
内村は、教会がない地方でも、雑誌を通して主日を守り、一人で礼拝ができるようにと考えていました。また、内村が地方を訪ねて講演会を開くと読者が集まり、そこに集会が生まれていきます。だから内村は、単に雑誌を発行しただけではなく、雑誌を通して読者のネットワークを作り出し、各地に集会を作ることを促していったわけです。こうして、雑誌、講演会、読者会(集会)が相互に作用しあう中で、無教会運動が成立するのです。
今、出版不況が言われる中で、書店で作家が読者会や朗読会を開き、読者とつながる場を作ろうと力を入れています。それに似ていますね。
そうですね。例えば、若松英輔さんの「読むと書く」講座や、東浩紀さんの「ゲンロンカフェ」でしょうか。内村も、雑誌や本を出すだけでなく、聖書講義や講演会という名のトークイベントに出続けたわけですから似ていますよね。
もし、内村が今の時代に生きていたら、インターネットを駆使しているのではないでしょうか? 個人の有料メールマガジンは絶対やっていますよね(笑)
メールマガジンかどうかは分からないですが、インターネットは間違いなく活用していると思いますね(笑)。100年以上前の内村にとっての雑誌やパンフレットは、現在でいえばインターネットのような意味を持っていたのだと思います。
それができたのは、内村に新聞記者だったという経歴があったからでしょうか。
内村は『萬朝報』で働いていたけれど、いわゆる新聞記者ではなく、英文欄を担当する論説委員でした。『萬朝報』は、政治家のスキャンダルなどを扱うことで人気があったのですが、さらに学生などの知識層にアピールするために、内村や幸徳秋水(1871~1911)といった人々が採用されました。
今で言えば、『週刊文春』に有名な大学教授や文化人がコラムを書くみたいな感覚でしょうか?(笑)
そうです、そうです(笑)。内村は『萬朝報』を通してマスメディアの威力を知り、読者の存在を意識するようになったのだと思います。
そういう視点で捉えていくと、内村のやっていたことの斬新さや、現代におけるメディアの在り方にもつながって、大変興味深いですね。
『萬朝報』を離れた後、30年間発行し続けた『聖書之研究』は、内村にとってオルタナティブなメディアだったのだと思います。大学の教師でも、教会の牧師でもないにもかかわらず、聖書の研究を続け、キリスト教を伝道するための場を自分で作ってしまったわけです。内村にとって、聖書講義を行う集会と並んで研究・教育・伝道のための場となったのが、『聖書之研究』という雑誌でした。そして、その読者たち一人一人が形作るネットワークが「教会の無い者の教会」、すなわち「紙上の教会」だったのだと思います。
今後の研究のテーマは?
内村が「紙上の教会」を構想した原点には、不敬事件で「国体」に抵触し、学校を追われ、教会から批判された経験があります。この事件はきわめて有名ですが、その意義については、まだ明らかになっていないところがあります。そこで現在は、内村鑑三不敬事件についての研究を進めています。