同志社大学良心学研究センターなどの主催で、環境倫理とキリスト教について考えるシンポジウム「環境問題と良心─未来世代のために今考えなければならないこと」が11日、同大今出川キャンパス(京都市)行われ、小原克博氏(同大神学部教授)と、和田喜彦氏(同大経済学部教授)が講演した。
「環境倫理とキリスト教─良心の個別性と普遍性を考える」と題して講演した小原氏は初め、看護隊員であった祖父が広島で被爆し、戦後、語り部として被爆体験を語り続けたのを間近で見て育ったことが、小原氏自身にとって環境倫理を考える原点だと語った。またその後、神学部教員の傍ら、大津市の産業廃棄物処理施設計画反対運動に関わり、計画を白紙撤回させるなかで、環境問題と地域のつながりの重要さを感じたと述べた。
キリスト教の自然観に対する批判
小原氏によると、キリスト教と環境倫理に関する議論は、1967年に科学史家リン・ホワイト・ジュニアがサイエンス誌に掲載した「今日の生態学的危機の歴史的源泉」という論文をめぐる「リン・ホワイト論争」に始まるという。リン・ホワイトは、現代の環境問題の原因が「西洋キリスト教が持つ人間中心主義」と「人と自然の二元論」にあるとし、「人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張した」ことにあると厳しく批判したという。
小原氏はこの論争について、環境問題はキリスト教よりもむしろ、キリスト教批判から始まった「近代合理主義」に原因があるのではないかとしつつも、キリスト教の自然観は確かに西洋社会に大きな影響を与えており、リン・ホワイトの指摘はそれまでなかったものだと評価した。一方、リン・ホワイトは論文の末尾で、「(アッシジの)聖フランシスコは、自然および自然と人間との関係についてのもう一つ別のキリスト教的見解を考え、人間をも含む全ての被造物の平等性という考えを試みた」「私はフランシスコを生態学者の聖者に推したい」と高く評価していたという。
その名を引き継いだ現ローマ教皇フランシスコは今年6月18日、回勅『ラウダート・シ』を発表し、「エコロジカル(環境的)な回心」を呼び掛けた。この表題は、聖フランチシスコの「太陽の賛歌」の中の「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ(「私の主よ、あなたはたたえられますように」の意)から取られており、彼は太陽や月、水、大地など、神が創った全ての創造物を通して神を賛美したといわれている。
教皇フランシスコは就任直後から、貧しい人々への配慮を訴えているが、これは地球的な環境問題で最初に被害を受けるのは貧しい人々であり、社会問題と環境問題は別物ではない、だからこそエコロジカルな回心を求めているという認識があるとして、小原氏は「そこには共通する問題意識があり、キリスト教の歴史においても非常に斬新なものだ」と評価した。
良心の個別性と普遍性
小原氏は、良心(conscience)という言葉は、ラテン語の conscientia(コンスキエンティア)を原義とし、con(共に)+ scire (知る)を意味すると説明し、「誰と共に知るのか?」として、①自己の内面的な対話(自立的良心=良心の個別性)、②他者と「共に知る」(他律的良心=良心の普遍性・エコロジカルな良心)、③神と「共に知る」(神律的良心=良心のコスモロジカルな次元)の3つの次元で説明した。そして、人類全体の問題である環境問題においては、①を超え、②③の他者や神と共に知るという姿勢が必要だと指摘した。
環境倫理の先駆者たち
環境問題の先駆者として知られる『沈黙の春』(1962年)のレイチェル・カーソンは、同書を医師・宣教師として知られるアルベルト・シュバイツァーにささげたという。シュバイツァーは自著の中で、「私は、生きんとする生命に取り囲まれた生きんとする生命である」「われわれが(倫理的)葛藤をいよいよ深く体験するならば、われわれは真理の中にある。疚(やま)しくない良心などは、悪魔の発明である」と書いているという。これは自身が第一次世界大戦に従軍し捕虜となる中で、なぜ同じキリスト教徒の欧州人同士が血を血で争う戦争を起こしたのか、その根底には西洋の人間中心主義があるのではないか、という問題意識から導き出されたものだと、小原氏は指摘した。
明治期の日本では、nature の訳語に「自然」と「天然」の2種類が使われてきたが、内村鑑三は「自然」が「自(おの)ずからなる」のに対して、「天然」は「天(神)から与えられるもの」だと理解し、「天然」を使って自らの思想を語った。
また、『デンマルク国の話』(1911年)の中で、「エネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤(なみ)にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく富源であります」と書いている。デンマークは、現在は国内需要の約2割を風力発電で賄う自然エネルギー大国となったが、内村は当時既に自然エネルギーの可能性を指摘していた。さらに、当時最大の環境問題ともいえる足尾鉱毒事件では、視察団を結成して現地へ派遣したほか、日刊紙「万朝報(よろずちょうほう)」にその被害の様子を記しており、小原氏は、内村が現代の環境問題を先取りする視野を持っていたと評価した。
ドイツの原子力撤廃の選択 「隣人」としての未来の世代
最後に小原氏は、「良心はともすれば境界線を引く」と述べた。社会階層、人種、性別、宗教の違いから境界線は生じる。また動物や自然は、“コミュニティー”の対象外とされてしまう。さらに、放射性廃棄物処理を将来に先延ばしすることは、「将来の世代をも排除することになる」として、ドイツの事例を紹介した。
東日本大震災後の2011年4月、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、エネルギーの安全供給に関する倫理委員会を発足させ、委員には科学技術者の他に、哲学者や社会学者、教会関係者など15人が選ばれた。倫理委員会は同年5月、「キリスト教の伝統と欧州文化の特性に基づき、われわれは自然環境を自分の目的のために破壊せず、将来の世代のために保護するという特別な義務と責任を持っている」とする報告書を発表し、ドイツ政府は2022年までの原発の全廃を閣議決定した。
小原氏は、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)というイエス・キリストの言葉について、100年後の人々も「隣人」として捉える必要があるとして、空間的・時間的なコスモロジカルな次元に転回させた良心の必要性を訴えた。(続く)
キリスト教から環境倫理をどう考えるか?:(1)(2)