不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(57)
死から目を背けられない
人間は死ぬ。のだろうと思う。死ななかった人間はいないというのは事実なんだろうが、今生きている人間もいずれ死ぬという前提は、実は生物学的な予測にすぎない。とはいえ、恐らくその予測は当たる。だから、人間は生まれながらに死ぬべき運命にあるといわれる。そこにこそ宗教の役割もあるし、その延長上にスピリチュアルケアの目標があるのは当然であろう。
さて、宗教は「死」に対して何を言うべきかを考えるべきだが、世間一般から期待されているのは「死ぬべき運命にある人間の救済」ということになろう。人間は死ぬ。人間も生物の一つなのだから「死を諦めろ」ということであれば、宗教には何の役割もない。むしろそれは哲学の課題である。
では、スピリチュアルケアとなればどうなるのであろうか。いろいろな提案がなされているが、基本的には宗教と対立はしないし、宗教が提供する精神に寄り添いながら、さらに現実的なことを提案していくことになるのであろう。例えば、老後の暮らし方、さらに具体的にいえば、老後の人的交流をどう確保するかなどを有意義にアドバイスしていくべきだろう。
ただし、人的交流うんぬんを提案していくとしても、それは本来、学問的な領域ではない。にもかかわらず、「ケア本」にはそういう余計なお世話が満ち満ちている。これからの人的交流はかくあるべしなどと論じても、そんなもの簡単に解決できるわけではない。だから、アドバイスというのはハウツーを教えることではない。その点を知った上でなお、押しつけがましく論じていくなら致し方なしだが。
それであえて答えを述べるのであるが、「どうぞ、たくさん砕けてください」と言わざるを得ないのだ。人間と人間が交わるということは、そこには「砕け散る」という作業があって、その向こう側にもしかしたら「生物的な何かを超えたもの」があるかもしれないと期待しているのが、人類700万年(現代科学の定説ではそうなっているらしい)の歴史なのだ。
アダムは一人でいた
神の創造されたものの中に、最初の人間とされるアダムがいた。アダムは一人でいた。なぜなら、アダムには向き合える相手がいなかったからだ。「アダムは一人だけど、神がそばにいるじゃないか」と優等生的な答えは不要だ。なぜなら、アダムは砂漠の隠修士ではないからだ。「人間は一対一で神と向き合える」などと思い上がるべきではないのだ。神はそんな軽い存在ではない。実のところ、人間は誰かと手を携えながら神と向き合うしかないのだ。というか、誰かと協働して何とか神に向き合えるかもしれないという程度だ。でなければ、キリストは教会を地上に設立などしなかったであろう。人間が一対一で神に向き合うことが極めて困難だから教会をご用意くださったのだと思うのであるが、どうだろうか。
命の木を探そう
アダムは一人でいたが、この世界では他のあらゆるものと上手くいかない。そこで神は、アダムのところにエバを連れてこられたのである。仲間ができた。大げさに言うと、この時、人類史上最初の人的交流が生まれたわけである。であるから、アダムはけしてエバの支配者ではない。そこが大事だ。だからこそ、そこにいろいろと複雑な問題が生じるたりもするのである。その一つが、「善悪の知識の木」の実を食べてしまうこと、いわゆる例の「毒リンゴ事件」となるのだが、それは間違いなく「いけない」ことだったと言っておこう。
そして、これはとても大事なことなのだが、人間が死ぬという現実は、アダムが誕生した瞬間から定められていたわけではない。人間は死ぬべき運命にあるとしても、その理由を聖書はすっぱりと宣言している。「人間の死」はアダムとエバが犯してしまった「毒リンゴ事件」の後に、神から与えられた一つの定めに違いないのだ。そして、その背後にある事実、エデンの園にあるはずの「命の木」に人間がもはや近づき難いという現実に目を向けるべきだ。善悪の知識の木については、われわれもその結末を知っている。その木の実をアダムとエバが食べたのだ。では、命の木はどこに行ったか、今はどこにあるのか、もちろん比喩的な意味も含めてじっくりと考えてみたいと思う。(続く)
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