不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(47)
リベカの策略は実行された
旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史、その全てをキリストに結び付けることは私にはできそうにもない。つまり、「この箇所はキリストとどのように関係するのか」と問われても、答えられないことの方が多いのだ。
今回取り上げるヤコブについても同様であろう。ヨセフの父として、またイスラエルという名の由来として、また12部族の父として、この人は大変に重要である。とはいえ、ヤコブ自身について何か人格的に優れた部分を探すというのは難しい。兄エサウから長子の権利をだまし取った人物として記憶されるヤコブであるが、その大事件の黒幕は母リベカであった。さらにややこしいのは、兄エサウもまたリベカの実子なのだ。
リベカは、兄のエサウではなく弟のヤコブを愛した。かどうかは分からないが、とにかくリベカはエサウではなくヤコブが長子の権利を得ることを望んだのである。長子の権利というのは、父の財産を相続するということが、主な意味合いではあるが、財産以上に大切なことは、この兄弟に限って言えば、祖父アブラハムが神から受けた名誉であろう。
名誉に属することとして、祖父が築いた土地の権利があり、人々からの尊敬がある。しかしもっと重要なことは、やはり神との関わりで考えるべきである。それはアブラハムが神から受けた特別な祝福である。つまり、大いなる民の父になるという神の約束である。その栄誉をだまし取るというとんでもないことが、母リベカによって計画され、そして実行されたのである。
取り消されない祝福を生きる
父イサクはだまされてヤコブに祝福を与えてしまった。それは詐欺的な行為であるから法的に無効を宣言することもできたであろう。しかし、イサクはそれを良しとはしなかった。だまされていたとしても、祝福の事実は事実として取り消さなかったのである。この取り消しされない祝福を巡って、いわばリベカの策略の結末としてヤコブの放浪人生が始まる。それはもちろん第一にはリベカが悪いのではあるが、その策略に乗っかったヤコブにも責任がある。というか、彼も深く考えない故に責任がある。
つまり、神が与えた約束に対するあまりにも大きな無思慮なのだ。神が与えた約束を受け継ぐということが、本当のところどれほどに意味深く、また、苦労も多いということを、ヤコブは身を持って知らされることになる。
神は約束される方である。同様にキリストもまた約束された。聖書には約束が満ち満ちているのであるから、その約束の中に生きるということの意味を、われわれは考えねばなるまい。
夢で会いましょう的な現代
少し話を変えるが、私は星を見る夢を見る。夜空の星々から新しき何かを発見したという夢である。それは、例えば新しい科学の真理かもしれないし、あるいは預言の類いかもしれない。それを人はひらめきと呼ぶのかもしれない。
星を見るにも一苦労する時代というか、まあ、そういう状況だ。だから星を見る夢を見る。夢じゃないと、きれいな星空が見えないといってよいほどに絶望的なのだ。それは視力の衰えだけではない。そもそも星が見える夜空がないのだ。私は相当な田舎に住んでいるから、上を向けば確かに星空らしきものは見える。子どもや若者であれば、もっとはっきりと見えるであろう。しかし、夜空を見ている人がどれほどいるだろうか。
私が少年の頃だから、おおよそ50年前といってよいのだが、その頃は星座盤なるものを屈指して、星座や有名な星々を探したものだ。何となくではあるが、有名なプレアデス星団を見つけたときの喜びは、今でも忘れはしない。本当にプレアデス星団であったかどうかは怪しいとしても、先人が発明した星座盤に導かれた少年が、それらしきものに到達したということそのものが尊いのだ。
ロマンのかけらもなく
今や北海道の田舎町でさえ、夜は真っ黒ではなくなった。函館の町の光が強力過ぎて、星々が見える範囲が本当に狭い。真上を見ないと見えてこないのだ。正直なところ、苦しい思いをしてまでわざわざ星を見るという気持ちにはなれない。いや、世の中便利になったもので、タブレットのアプリを使えば、見たい方向に画面を向けただけで実際に見えるはずの夜空が再現されるのだ。
驚くべきは、その画面の中にある人工衛星の数の多さだ。「ビックリした〜」というくらいに多い。流れ星かと思いきや、人工衛星が横切っただけということもあるようだ。むしろ、このように語るべきではないか。人間が打ち上げた新しい星々が多過ぎて、本物の星々が見えないくらいになっていると。ロマンのかけらもない。
星々は人間を圧倒する
ヤコブは長子の権利を巡るいざこざで家を出て、放浪生活をするしかなかった。ハランというアブラハムの故郷を目指したようである。それはとても長い旅路である。歩いてはまた歩き、ひたすら歩いていくしかない。歩けば日が暮れる。夜が来るのだ。ある場所に来たとき、ヤコブは石を枕にして横たわった。もちろん星が見えるに決まっている。毎夜、毎夜と見慣れた星々だ。真っ暗な夜だ。星が降ってくる、いや、襲い来るという表現が正しいかもしれない。
私も登山をしていたころは、そういう夜を体験することができた。ものすごい数の星々が、その光景が、わが身を包み込むのだ。それは怖いくらいにたくさんの星が迫ってくる。星を数えて夜を過ごすなんてものではない。数え切れないのだ。これほど多くの星々の中に暮らしていたのかと、今では懐かしく思う。その中から特定の星を探し出すなど、今とは違う意味でかなり難しい。だから怖くなって目を閉じるのだ。圧倒されて目を閉じるのだ。だからといって、ヤコブが見た夢が星空の投影であるというのは、恐らく違うと思うのだ。
天使のダンス
ヤコブが夢で見たのは、天使ではなくて星々のダンスであったというのは、恐らく現代的な感覚でしかない。むしろ、圧倒する星々が消えた夢という世界だからこそ、ヤコブは天使を見たのだ。ヤコブが見た、天使が梯子(はしご)を登ったり降りたりする夢というのは、それはつまり、星々の中に隠れていた光景なのだ。視覚では捉えることができない神秘の世界なのだ。
星々の向こう側で天使がダンスをしている。何と素晴らしい光景か。人工衛星が人間によって決められたコースを定められたように通行しているのとは全く違う光景なのだ。そして、その天使のダンスはもっと素晴らしい訪れの前触れに過ぎない。目を閉じているからこそ、「目」にすることが可能となった景色である。もちろん、それは放浪というかなり悲劇的な出来事の中でのこと。日常のことではない。ヤコブは見たのである。神が傍らに立ち、そして自分自身に語りかけてくるその不思議を!(続く)
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