不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(42)
結論は重要ではあるが
途中はどうでもよいから結論だけを知りたい。そう思わせる映画はほとんどないのである。大抵の映画は、途中で最後がどうなるか大体は分かるが、それでもやはり途中をじっくりと楽しみたいものである。
自分の人生の方が、小説や映画よりもスリリングかつ奥深いと思うのは、結末を知らないからである。最初に結論を書いている科学論文を読むと、文系のしかも神学の類いはどうにもダラダラし過ぎていると思う。とはいえ、私のコラムは「ダラダラ、ピコピコだ」と、とある博士から指摘を受けたのではあるが。だからダメだとは言われなかったので、スタイルは変えないつもりである。
最近、集中的に読んだスピリチュアル系の論文なども、どちらかといえば結論をスパッと語ってから各論に移っているので助かる。特に意識高い系の啓発本は、題名というか、本の表紙からして結論がビシバシ伝わってくる。
獣の刻印
で、今回はヨハネの黙示録でも取り上げてみようと思ったのであるが、どうも真剣に目を通す気にならないので、とりあえず20章を開いてみた。この書物は書き出しの1章からして、かなりダラダラしているように思う。そういう意味では早く結論を言ってくれと思うところはある。長い書物なので、例の「666」とやらもどこに出てくるのかさっぱり分からない。「獣の刻印」という言葉も最近になって知ったくらいだから、私がいかにこの書物に関心がないのか分かるであろう。
黙示録から何か、世界の秘密や、神による救済の秘伝なりを探りだそうと思っている人(これが結構多いらしい)には、この書をじっくり読む価値があるのだろう。だが、私ははなから世界にも聖書にも秘密や陰謀は隠されていないと思っているわけで、仮にそのようなものがあったとしても、「およそ隠されたもので人類に役立ったものなどないだろう」と考えてしまうのは、少々根性が曲がり過ぎなのかもしれない。神秘は大事よ!
千年って書いてあるわ
さて、「至福千年」とか「千年王国」とか、いろいろと耳にしてはきたが、今回「ああ、それって20章に書いてあるのか」と思った次第である。先に結論を述べよう。何の事かさっぱり分からない。千年間、サタンが牢獄につながれて、その後に野に放たれるらしい。恐らくサタンは同類を探し集め、その数がとても多いらしい(7節以下)。
まあ、そりゃそうだろう。サタンの仲間は実に多いのだ。サタンは戦いのために同類をかき集め、聖なる人々の陣営と愛された都を取り囲んだとか。歴史学的にいえば、これは恐らく、ローマ皇帝の息子であったティトゥスによるエルサレム包囲戦を念頭に置いた表現であろう。そのユダヤ戦争では、ユダヤ人もエルサレムも、ついでにエルサレムにあった教会も大変に痛い目に遭ったわけで、相当な数の民衆が命を落とした。その中にはユダヤ人キリスト教徒もいたはずだ。
そのような人々を聖なる陣営と呼んだのかもしれないが、とにかく黙示録がある程度はユダヤ戦争の記憶によって脚色されているのは確かだろうし、ローマ皇帝側はサタンのごとき扱いをされても致し方ないところもあるだろう。それでも、肝心なところとして、黙示録が述べるところと違って、現実のローマが焼き尽くされたという事実はない。
命の書
黙示録がただただローマ憎しで、いつかこの者どもが神の裁きの中で焼き尽くされたらよいのにという願望が満ち満ちた書であるなら、それはそれで大いに結構だと思う。問題は、表現の仕方が何とも「キレ」が悪過ぎて、一度読んだくらいでは何のことやら分からないということだ。
黙示録というのは、隠されていた事実が公にされるという意味があるので、その隠されていた部分というのが、何ともよく分からないというのは当然のことであろう。
書いているところによれば、サタンによる大決起が終わって、それからどうも死者の裁きのような儀式があって、その時に「命の書」に名前が記されていない者たちは、永遠の地獄行きに定められるのである。
裁きの時は?
命の書というのは、殉教もしくはそれに準じた働きをした人々が記されているのだが(3章5節)、まあ、難しい時代、厳しい時代に、信仰によって生きた人々を記憶する必要はあるだろう。
逆にいえば、サタンの側には、とんでもない人々もいる。それはそれでよい。実際にいるのだから。その対極にいる者たちは誰であろうか。私なら、自分はサタンの側にいるから最後は永遠の地獄に行くであろうと思っているのであるが、そのように覚悟できているのかというと、そうでもない。かといって、命の書に名前があるとは現時点では到底思えないのであるし、今からそこに名前が記されるような生き方ができるとも思えない。
あるいは、私が生きているこの時代に至福千年が到来するとか、してほしいとも思わない。黙示録の記述通りなら、至福千年が続いた後にサタンとの戦いとなるから、最後の戦いはずっとずっと後のことになる。つまり、それに続く最後の裁きの時も遠いのだ。
最後の審判
だからといって、サタンとの戦いや、キリストの裁きと無縁なのだと考えてはならないのである。それは、「今を生きるあなたの生活の中にこそ」ひっそりと横たわっているのかもしれない。死者にとって(誰もが死者になることを前提にいえば)、時間の経過など関係ないから、サタンとの最終戦争も最後の裁きもわれわれにはまったく無縁ではないのだ。
キリスト教的にいえば、既に裁かれているとしても不思議はない。それは何も原罪論とか予定論の延長で言っているわけではない。個々人がキリストを拒絶しているなら、それ自体が裁きではないのだろうか。かといって、しばしばわれわれはキリストを拒絶しているという事実、つまり、それが「絶えず死に直面している人間の現実」であるということもお忘れなく。
どうすればよいのやら
とはいえ、「私はどうせ地獄行きだから」と好き勝手に生きるというわけにもいくまい。そうであれば、生きている間に(死んだら善行のなしようもないから?)サタン側から離れて、命の書なり、あるいは閻魔(えんま)帳的なものにも、少しは善い行いを記録してもらいたいと思うとしても、それは人間として当たり前のことでもある。最大の問題は、われわれは善行に疎いということである。さあ、どうすっか、と。(続く)
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