不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(39)
キリスト教徒の理想
人はこちらが望んでいるようにはなかなか死んではくれない。と書けば物騒な話ではあるが、要するに、美しいと思う死に出会うことなど、そう滅多にはないということである。キリストを信じているなら、それにふさわしい死に方というものはあるのだろうが、まさかそんな崇高な話をするつもりはないのであるが・・・。
キリスト教徒がキリスト教徒として人生を終えるとき、死期を悟った人は、自らの罪を告白して聖職者から赦罪を受け、できればご聖体を頂きつつ、終わりの時を迎えてほしい。そのような信仰的大往生といえるような最期は、家族も、葬儀の司式をする側も、それなりに「達成感」があるだろう。しかし、そう簡単なものではない。
死を前にして言葉にならないこともある
人は死期を悟らない、いや、悟りたくない。当たり前ではないか。これは年齢とはあまり関係ないようにも思う。実のところ、その時が目の前に近づいているとしても、それはなかなか話題にはできないものだ。病状が進んでいるが、本人の意識がハッキリしている場合はなおさらだ。
まして、当人に死を覚悟するよう促し、「悔いが残らないように罪の告白をしましょう」とはなかなか言えたものではない。余命幾ばくもないとしても、希望を抱いて「今」を生きてほしいと思うし、そのように励ますのは、間違ったことではない。それが人間というものではないか。死生学や病床ケアの教科書のようには事は運ばないのだ。
とはいえ、キリスト教の立場としては、復活と永生を信じてもらえるように、また自らの死を過ぎ越していけるように導いていくのが本筋だ。そのために、たとえそれが困難極まりないことであったとしても、お互いに死に向き合うべきだろう。
しかし、言い訳をさせていただくなら、どうも私にはその辺のことはよく分からない。とても難しい。ただ経験的に言うならば、少なからず、自然とそのような姿に変わっていく人もいる。それも、理論的なことではなく、あくまでも経験上のことではあるが。
実は先週金曜日に父が97歳で死んだ
繰り返しになるが、人はこちらが望んでいるようには「うまく」死んではくれないことが多いのも事実なのだ。もちろん、こちらが望んでいるというのは、こちらの勝手であって、当人本意のことではない。キリスト教徒として、語り草にできるような美しい死に様のことだ。看取った者として満足のいくような死に方である。当人からは、いい加減にしろと怒られそうだが。
最近は、亡くなる方の多くが90歳前後になり、高齢者が信仰に満たされて死ぬということが、いかに難しいことか実感させられている。
もちろん、当人の責任など問うつもりはない。第一に、やはり体が衰えると教会には行けない。自然と教会から疎遠になる。書物も読めない。教会から頼りが届いたところで、あまり意味をなさない。コロナの影響なのか、牧師の怠惰なのか、訪問もないから信仰的な緊張がない。
緊張がないから、自分のことだけに集中してしまう。自分は高齢者だから、死んでも仕方がない、当たり前だと思える人は少ない。あまりに自分のことに集中すると、いろいろと良からぬことを考えてしまう。わがままにもなる。元気な時は、家族に対しても「信仰者たるものかく生きるべし」という姿勢を保てるかもしれないが、自分の体や自分の心を持て余すようになると、信仰うんぬんはどこかにすっ飛んでしまうものだ。
信仰ケアほど難しいものはない
同時に、家族もだんだんと戸惑うようになる。果たしてこの人の信仰とは何であったのか、となる。病床ケアはできる。精神ケアもある程度は可能である。しかし、信仰者への信仰ケアほど難しいものはないのだ。高齢になればなるほどに難しい。まして、家族がキリスト教徒でない場合はなおさらである。
そうは言っても、その事実から逃げるわけにはいかない。これからわれわれがいやというほど体験していく現実なのだ。もちろん、われわれ自身も、家族も、友人も知人も同じである。何としても自分ごととして死に向き合っていくしかないのだ。
キリストを信じた者として、あるいはキリストによる永遠の命を信じて平安に最期を迎えてほしいと願う人のために、キリストと共にある死をどう組み立てていくのか、それはどのようにして可能となるのか、課題は常に目の前にあるのではなかろうか。(続く)
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