不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(48)
※ 前回「放浪も味わいであるが リベカの詐欺事件解毒(その1)」から続く。
ここで神の声を聞くとは!ということが起こるのも人生である
悪夢ではない。しかし、予想外ということはいくらでもある。たとえ夢であったとしても、神が自分に語りかけるなど、普通は想像ができない。神はそれなりの人間にお告げを知らせるのであろうし、その特別な人間を通じて神の言葉を聞くと考えるのが普通の神経である。自分がその特別な人間なのだ!とは思わない方がよいのだ。
さて、長子の権利、それはアブラハムが受けたものをイサクが引き継ぎ、エサウに譲渡されるはずのものだった。それこそが、その時代の相場というもの。従って、長子の権利をヤコブに横取りされたエサウがまずは神から慰めを受けるのが相場ではないか。その長子の権利を奪われたエサウであるが、その子孫はやがてイシュマエルの子孫と合流してユダヤ・イエスラエルと敵対関係になるのであるが、それはまたずっと後のことである。
現代人の感覚であれば、まず失意の中にあるエサウこそが配慮されるべきと考えるのはおかしなことではなかろう。しかし、話の舞台は、古代も古代、ずっとずっと昔の社会である。やはり、実際に長子の権利を受けた人間、つまりヤコブの方に注目が行くということだろうか。そう考えると、不公平も甚だしいのであるが、であっても神の声を聞かねばならぬのはヤコブであったのだ。つまり、彼はそれほどに重たいものを背負わされていたのだ。
神はそこらかしこにいる、はず
さて、少し視点を変えるが、われわれが生きている世界において、神はどれほど些細なことにまで関与するのかと考えることはあるだろうか。神は世界の全てを創造した方である。言葉を換えて言うならば、全てのものに神の意志が宿る、いや、神が宿ると言ってもよい。この場合、大事なことは「全て」という部分である。人間の生涯において起こり得る出来事の全てというだけではない。素粒子のレベルから宇宙の大構造に至るまで、全てにおいてということになる。
実際にそれがどういうことなのか、われわれには理解しようもない。われわれが認識できる世界というのは、せいぜい数ミリメールから数万キロメートルの範囲に過ぎない。しかし、10のマイナス40乗センチメートルの極小世界から10の100乗メートルというとてつもない大宇宙までもが、一つの法則の下に存在しているらしい。乗数の値については諸説あるので突っ込まないでいただきたい。
それを科学的に、数学的に説明しようと、われわれ人類は一生懸命に探求してきたのであるが、それを信仰的に表現すれば簡単に終わる。この宇宙は神が創造し、神が支配している。ただこれだけだ。付け加えるとしたら、なぜ神が創造し支配しているのか、それはどういう方法によってか、ということになるが、それについては大変に便利な言葉がある。神のロゴス(言葉)であるキリストによって創造し、そのキリストの支配の下に世界が成り立っている。人間にできることは、その神である方と共働するくらいのものである。
その時にキリストも共にいたと考えるのがキリスト教である
神は言葉によってヤコブにご自身について語る。こじつけと言われるならそれでもよいが、キリスト教的な物言いをするならば、「言葉によって」と言われるときには、やはりそこにキリストを読み込むことが可能である。
人はこのように問うかもしれない。キリストの出来事というのは、ヤコブから1500年くらい後のことではないのかと。その通りである。キリストがこの世に生まれ、この世で生きて、この世で死んで、この世に復活されたのは、ヤコブが夢を見たずっとずっと後のことである。
しかし、ヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった」と宣言しているのだ。これは、キリスト教の専門用語で「キリストの先在」と呼ばれる。キリストは常に父と共にいたということ。天地創造の初めからキリストはいたのである。だから、当然のごとくヤコブの放浪においてもキリストは父なる神と共にいる。
これは神秘の類いであって理屈ではない。神の声はキリストの声である。逆に言えば、キリストの声は神の声である。神の本性は不変であるというのが、われわれの考えである。
われわれも約束を受けている
放浪の末に石を枕に眠り込むヤコブ。彼の元に現れ、語る神は、十字架と復活のキリストと本性的に同じなのだ。キリストもまたこの世では放浪者であったが、つまり放浪者ヤコブと共におられる神は、やがてイエス・キリストとしてご自身もまた放浪に身を委ねるのである。
放浪者と共にある神というのも何とも想像し難たいことであるが、事実として神はヤコブに現れる。そしてご自身を告げる。神はヤコブの神である。ヤコブとその子孫に祝福を約束する神である。実質的には長子の権利はおろか、父イサクの家からさえも出て行かざるを得なかったヤコブである。まさに手ぶらのヤコブである。その手ぶらのヤコブに神は約束されるのだ。長子の権利はヤコブの手にある。しかし、いつの日か約束は実現されるとしても、今は約束だけなら形なきものである。だから、ヤコブが手ぶらであることには何の変わりもない。
神は全てに宿るとされる。それでも神から約束を受けるのは人間だけの特権であり、ヤコブの時代でいえば、ごく少数の者にすぎない。神は全ての者の創造者であるが、神が生涯の行く末を約束する者は少数であったのだ。それが旧約といわれる時代の現実であろう。
われわれは新しい約束の中に生きている。それはイエス・キリストにおいて約束された人生である。実際に約束を受けた者は、弟子やイエスの近くにいた少数の者にすぎない。しかし、その小さき群れはキリストの約束を限定しなかった。もっと大勢がキリストの約束の中で生きるべきだと信じたのだ。その約束というものは、より多くの人々にも有効であると。そういう意味でヤコブが受け取った約束以上のものだ、とわれわれは断言できるのだ。
記念される神
ヤコブは神の声を聞いて興奮状態になった。この場所は神の家、天の門だと考えたのだ。そして石の枕を記念碑としてその場所に立てて、そこをベテル(神の家)と命名したと聖書は語っている。実際は、神はどこにでもおられるわけで、別にベテルに限定されるわけではない。神が共におられることを、放浪のヤコブが知り得たということが大事なのだ。そして、ヤコブは常に神が共におられることに気付く。創世記28章26節以下を参照してほしい。
そしてヤコブは、与えられるものの10分の1をささげることを誓った。放浪者が手にするわずかなものの10分の1なら値打ちがあるだろうと思う。とはいえ、これがいわゆる十分の一献金の由来であると説明する気は私には全くないのであるが。
われわれにおいて重要なことは、われわれがヤコブに優る約束を受けているということであり、事実としてその約束の中で生きている意味を知ることである。キリストはインマヌエルである。10分の1をささげる前に(それが不可能であっても)、われわれは気付かねばならない。放浪の人生の中でも語りかけてくれる神がおられることを、しっかり味わうべしなのだ。(終わり)
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