不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(58)
※ 前回「命の木はどこに行ったのか 再び創世記(その1)」から続く。
かつて人間は知識を選んだ
命と知識、どちらを尊び、どちらに手を伸ばすべきか。問い方を変えよう。知識がないと命は危ういか。そりゃそうだろう。この世で命を保っていくためには知識が必要である。もしかしたら知識というものではないかもしれないが、少なくても経験と手段によってさまざまな「生命」が日々サバイバルにいそしんでいる。「知識」とは命の経験を積み重ねることだといえなくもない。経験を積み、知識を蓄えつつ、人間は生命活動を続けているというのは確かであろう。
神は全てをコントロールしているのか
何でもかんでも、つまり、世界の隅々にいたる微少なこと全てが神の意志によって営まれているとは思っていないが(いや、本来はそう思うべきなのだが)、少なくても神が世界の隅々にいたる事柄を把握しておられるのだろうと、私は信じている。というか、そう望んでいる。
だからといって、この世の何から何まで全てを神任せというのは、ちょっと違うと思うのである。神の意志があるなら、人間の意志もある。その意志は自由なのか、それとも人間の意志もまた神の支配の中にあって、全面的なコントロールを受けているのか、私には正直分からない。それでも私は、「人間には自由意志がある」という立場だ。
人間の自由意志
だから、自らの意志には責任があるのだろうと私は考えている。そして、ここが重要な点なのだが、人間の意志というものも「知識と経験」によってかなり変わり得るということだ。それについては、科学者たちも大いに興味を持っているようで、いろいろな領域で研究がなされている。特に精神医学領域でたくさんの研究・考察がなされ、中には人間の意志をコントロールする方法などを紹介する書籍もあったりする。
宗教学というものもその直線上に並んでいるのだろうが、宗教が何であるのかということよりもむしろ、宗教によって人間はどのように行動するのか、ということの方が興味を持たれやすい。「宗教現象」とはいまだに使われる用語であるが、よくよく考えてみると「何のこっちゃ」ではある。冷静に考えれば、宗教現象学など「日常生活研究」とあまり違いはないだろう。それでも「宗教現象」なる言葉を用いて何かを語りたくなるほどに、宗教世界においても「意志行動」というものは興味深いわけだ(神学的に色付けされたりもしているが・・・)。
アダムとエバは神から禁止されている木の実を食べる際に、命の木の実ではなく、善悪の知識の木の実の方を選んだ。そのおかげで目が開かれたということになっている。そして、自らの裸に気付いたわけだが、そのことについてはかなり前に論じているので、それを参照してほしい(「人間とは何か?『裸』で生まれた者として」参照)。ここで考えるべきは、2人が選択しなかった命の木についてである。このように問いかけよう。「今や命の木はどこにあるのだろうか。その木の行方をわれわれは追い求めるべきだろうか」と。
もちろん、聖書の記述から答えるならば、その木は今も人間には閉ざされている「エデンの園」にそのまま残されているのだろう。そんな昔の木はとっくの昔に枯れ果てているなどと無粋なことは言わないでほしい。命の木は神木であるから枯れ果てたりしないのだ。
神には答える義務があると不遜なことを言ってみる
聖書によれば、神は命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。こういう文章にいちいちこだわっているから、私は偏執狂なのだが、それでもいろいろと思うところはある。命の木に至る道とは何ぞや。われわれ人間は、命の木に至るのにはふさわしくないのだろうか。それとも命の木を探し求めることに何かの意味があるのだろうか。たとえそこに到達できない運命にあるとしてもだ。
人間が永遠に生きるかもしれない唯一の道があるなら、アダムの時点でいえば、命の木の実を食べることだったのかもしれない。しかし今や、その木に至る道は閉ざされている。神にとって人間は、永遠に生きるべきものではない、あるいは永遠に生きる価値なしと宣言されたということになるのだろうか。そこはちょっと分からない。
それでも人間の側にも言い分がある。こういう世界であったとしても、つまりエデンの園の外に生きるわれわれであったとしてもなお、命の木を渇望しているし、多分人間というものは命の木を探し求め続けているのである。ならば、神としてもわれわれに答える義務はあるのではないか。まあ、これは言い過ぎではあるが・・・。(続く)
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