不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(56)
※ 前回「貧しさとは何であるのか(その2)」から続く。
高価な香油がじゃぶじゃぶと浪費された
全くの偶然だった、とは言い難いのであるが、とにかくイエスの生前葬は行われたのだ。恐らくマリアはその時が来るのを待っていたのである。そのために高価な香油をたくさん蓄えていた。塗油は古くから行われている行為で、伝統教会では今も行われている。塗油というのはわりと日常的な行為で、臨終の際は終油が司祭などによって行われ、もちろんそこには祈祷が含まれる。残念であるが私の属した教会にはそういう習慣がなかったので、なかなかその意味するところを理解できてはいない。
香油は今でもセラピーにも用いられるが、現代ではそれほど高価なものではないだろう。しかし、マリアがイエスに塗油したナルドの香油はとても高価で特別なものだったようだ。マリアがこの時に使用したナルドの香油は、現代価値に置き換えると100万円を超えると聞いたことがある。聖書には1リトラ(約350グラム)とあるから、感覚的には「じゃぶじゃぶ」と惜しげなく塗ったという感じになるだろうか。それが事実かどうかは分からないが、とにかくこの香油は数滴でも十分な香りを発する。であるならば、やはり「じゃぶじゃぶ」状態なので、まさに部屋中に香りが満ちあふれたのである。ここに一つの注目点があるように思うのだ。
マリアは空っぽになっただろう
私は医者の夫なので日常的に「医」について妻と語り合うことが多い。私は、薬は決められた量の50パーセント増しくらいを使うのが現実的ではないかと思っている。つまり、少なく飲むよりも多く飲む方が良いと考えている。ところが、薬は用量が医学的に「適切」に定められており、私のような考えは「とんでもない」だそうだ。効果があるなら、なるべく少なく飲むというのが現代医療の基本姿勢だ。
ところが私は、多く飲んでも実害がないならなるべく多く飲んだ方が効き目は大きいと思っている。妻に言わせると「それが一番悪い考え方」なのだそうだ。確かにそうだろうなと思うには思う。しかし、いざ薬を飲むとなると、やはり大目に飲んでしまうのだ。
それはともかく、マリアの塗油によるイエスの生前葬だって、実のところ「少ない」量の香油で十分であったことは間違いない。にもかかわらず、マリアは必要以上の香油をイエスに塗ったのだ。持っているものを残さず塗ったということになろう。だからここで一つの解釈というか、それは空想の類いになるが、部屋を満たした香りは大量の香油のおかげだとはあまり思いたくはない。それはマリアからイエスにささげられた愛の香りであったと思いたいわけである。少しで十分なものを、あえてたくさん用いた、余さず用いたと。そこにこそマリアの心が表れている。マリアは高価な香油を使い切ったのだ。つまり、空っぽになったのだ。でも「部屋は香油の香りでいっぱいになった」、そこに「愛」が表現されていると考えても何も悪いことはない。
ユダもまた心煩う者であっただろうが
貧しさとは明日ならぬ、今日の煩いである。貧しい者は「やがて」ではなく、「今」何とかしてほしいと願っている。イエスに香油を注ぐマリアをユダが批判した。それは彼がお金に対して不誠実だったからだとヨハネ福音書は解説している。要するにピンハネをしていたわけである。とはいえ、イエスの財布を預かっていたからといって、それが大金のわけがない。イエスと弟子たちの日用の糧を賄うのがせいぜいだ。大金ではないものからピンハネをしてしまうユダの意識というのは誠に残念だが、ユダを代弁するなら、彼もまた貧しいわけである。なぜならば、イエスと弟子たちが今日を生きていくための「お金」を預かっていたからだ。
お金を扱う人間はいつも「今」を煩う。煩うから価値観というものが歪むこともある。だから、わずかなお金からピンハネをしてしまうこともある。自己をごまかすということだ。要するに、どうでもよくなるということなのだ。そういう彼が今、つまり今日という日に目にした光景が、大変高価で、売り払えば自分たちが少なくても何カ月も生きていられるくらい値打ちある香油が「浪費」されている現実だったのだ。「香油を俺たちによこせ」と強欲なことを言っているわけでない。「私ならもっと有意義な使い方をできるのに」という意味だ。
確かに目の前には、自分が穴を開けた家計を補填してくれるかもしれない高価な香油があったのだ。ユダにしてみれば、イエスの生前葬やマリアの愛よりも、何より貧しさの解消が主題なのだ。
しかし、マリアは違う。マリアはイエスを葬ること、つまり、イエスへの愛こそが「今」この時の全てである。イエスへの愛を実現するために、マリアは浪費するのである。マリアは貧しさの解消を目指さない。むしろ、イエスへの愛を貫き、自らも財産を浪費して貧しさへ突入していった。
清貧を求めはしないが
貧しくありたい、と私は願わない。清貧でありたいと願うことは美徳であるが、しかしそれ自体が目的だとしたら、そしてもしそれを完遂したら、私は自らを誇るであろう。傲慢になるであろう。それはもしかしたらイスカリオテのユダと同じ願望を抱くことかもしれない。清貧は目的ではない。結果なのだ。それがマリアの姿である。
イエスを生前に葬るために、マリア以外の誰も思いつかない方法で愛を浪費した。だから、きょうだいであるラザロもマルタも批判などしない。受け入れるのである。
葬りは終わった
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」とイエスは弟子たちを諭した。いずれ弟子たちと教会は貧しい人々のために、何をどのように「浪費」できるのか問われることになる。それは今も問われている事柄だ。マリアがイエスのためになした愛の行為を語り継いできた教会は、それとはまた違う形で貧しい人々への愛を具体化することを求められる。私も自らに問い続けるしかない。
私も今日を生きる。同じようにこの世の全ての人々が今日を生きる。また、この世の全てとはいわないが、幾ばくかの人々は私と共に生きてくれる。お互いさまだ。経済的な貧しさはもちろんであるが、いろいろな貧しさを抱えて生きる人々がいて、中にはマリアの行為を批判する人もいるかもしれない。であるならなおさらのこと、ベタニアにおいて実現された「イエスの生前葬」についてキリスト教徒として肯定していきたい。イエスはこの時に、きっととてもうれしかったと思うから。(終わり)
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