信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、・・・彼が義人であることの証明を得ました。・・・彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(ヘブル11:4)
カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:3〜5)
山口県の誤送金のニュースを見て、罪意識のない心の持ち主が増えてきていることに、怖さを覚えます。私たちも日々信仰を働かせ、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、良いものを心に受け止めて歩む必要があります。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。信仰の目を通して、目に見えない世界を信じ、確信することです。神様は私たちに信仰を求めておられます。
創世記4章では、アダムの子どものうち、カインは土を耕やす者、アベルは羊を飼う仕事を持ち、それぞれ神にいけにえをささげました。カインは自分が収穫した農作物をささげ、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきました。主はアベルとそのささげ物に目を留められたが、カインとそのささげ物には目を留めませんでした。それでカインはひどく怒り、顔を伏せたとあります。なぜ、神様はアベルのささげ物には目を留め、カインのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。ここに私たちが知らなければならない信仰の姿勢があります。
1. 信仰の質の違い
カインもアベルも、自分の仕事で得た物をささげました。同じように見える物、同じように見える行動ですが、そこには、込められた信仰の質の差があります。アベルは羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきました。ささげ物に込められた思い、信仰の思いの差が明らかにあります。私たちも見かけではなく、本質、中身にこだわる必要があります。献金も、どんな動機で、どんな思いで、どんな気持ちを込めてささげているのか。信仰の質の違いが出てくることを知らなければなりません。
2. 神の思い?人との比較?
人はうわべを見ますが、神様は心を見られます。アベルのささげ物は、彼に命を与え、仕事を与え、生活を豊かに祝福してくださった神への感謝のささげ物でした。だから最善の物で神様に賛美をささげたのです。カインのささげ物も、人の目には何も問題を感じませんが、神様に向かっての信仰という部分で、心が込もっていなかったのです。
自分のささげ物に目を留められなかったカインは怒り、神様に対して顔を伏せてしまいます。しかしそれは、心の中に、神様を真っすぐに見ることのできないものがあったからです。そして、人類最初の殺人者となってしまいました。私たちはささげ物を神様に向かってしているのか、人と比較して自己満足のためにしているのか、その中身をもう一度、吟味する必要があります。
3. 信仰の質を吟味するもの
6、7節に「あなたが正しく行ったのであれば」とあるように、自分の行動を神様の前に引き出して、信仰を吟味したいのです。人ではなく、神を満足させる信仰かどうか、信仰の質が問われています。そしてそれは、信仰生活すべてに当てはまることです。自分を超える神の癒やしや助け、慰めが与えられるように祈りましょう。医療従事者でも学校の先生でも、単なる仕事としてだけではなく、正直に、人を愛して、努力しながら、クリスチャンとしての人生観まで伝えようではありませんか。日々、当たり前のことをしていながらも、神様に愛される者になりましょう。
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