その知らせをネットニュースで見たとき、いきなり頭の中に割れんばかりの衝撃が走った。にわかには信じられなかった。思わずスマホを落としてしまいそうになった。それくらい「信じられない(信じたくない)」ニュースだった。
映画「ブラックパンサー」(2018年)でワカンダ王国の若き国王(ティ・チャラ)を演じた俳優のチャドウィック・ボーズマンが、現地時間8月28日に他界した。原因は大腸がん。43歳の若さであった。
ご存じ、マーベル映画として異彩を放つ「ブラックパンサー」は、単体ヒーロー映画としては段トツの世界興行収入を記録(10億ドル突破!)し、世界第9位(1位は同じマーベル映画の「アベンジャーズ/エンドゲーム」)、北米ランキング第3位(1位は「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」)という記録を打ち立てている。さらに特筆すべきは、昨年の第91回アカデミー賞において、作品賞にノミネートされたことである。この手のブロックバスター映画は、俳優の演技やVFXなどの特殊効果に絡むノミネートは数多くある。だが主要部門中の主要部門、その年の顔ともいえる「作品賞」にノミネートされたヒーロー映画はいまだない。変化球でギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」が挙げられるが、あれは一連のアメコミ映画とは一線を画したものとなっている。
さて、今回の訃報を受けて、マーベルが次のような追悼動画を作成し、ユーチューブやSNSで公開した。
映画そのものが「規格外の異例尽くし」だったが、こういった追悼動画がわずか数日で作成されることなど、いかにチャドウィック・ボーズマンの存在がマーベル映画にとって大きな存在であったかをうかがい知ることができる。ちなみに「ブラックパンサー2」は2022年5月6日の公開がすでに決まっている。主役を失って、これからどうしていくのか。そのあたりも気になるところである。
ところで、なぜこの作品がこれほどまで大きく取り上げられ、人々がこぞって鑑賞したのだろうか。もちろんエンタメ映画として最高の技術とスタッフを駆使して作り上げたということは言うまでもない。しかし今回、作品の「質」を大いに高めることになったもう一つの要因を探ってみたい。それは、映画「ブラックパンサー」が「米国の宿痾(しゅくあ)」をモチーフとして、社会問題を見事にエンタメとして昇華させた点である。
「ブラックパンサー」とは?
「ブラックパンサー(党)」とは、公民権運動末期の1960年代後半から70年代にかけ、米国で黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開した政治組織のことである。マーティン・ルーサー・キング牧師の指導による公民権運動が鈍化し、なかなか具体的な現状改善がなされないことに業を煮やしたヒューイ・ニュートンとボビー・シールは、学生非暴力調整委員会(SNCC)のストークリー・カーマイケルが提唱した「ブラックパワー」に啓発され、武力行使も辞さない急進的な黒人コミュニティー集団を作り上げたのである。最終的にブラックパンサー党はニクソン政権下に弾圧され弱体化していく。
しかし、キング牧師らの公民権運動が米国全体の融和を目指すものであったのに対し、ブラックパンサー党は、むしろマルコムXのような分離主義的思想を復興させようとしたともいえる。つまり、「ブラック(黒人)こそ、秀でた者の証し」という発想の転換を世に示したのである。
映画「ブラックパンサー」と現代米国
映画「ブラックパンサー」は、キング牧師主導の公民権運動以後の黒人事情を踏まえるとともに、現在のトランプ政権下の米国の問題点をも浮き彫りにしていく。まずは、黒人間の経済格差である。公民権運動とそれに伴うアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)の結果、確かに一部の黒人たちは豊かになり、人種間格差の是正が行われたかのように思われる。しかし、それは同人種間内に格差を生じさせる結果となり、むしろ公民権運動を経ることで、さらに貧困率が上がってしまった地域も存在している。
そのあたりを、映画のヴィラン(悪役)として登場するキルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)が鋭く指摘する。そして国王であるティ・チャラと王位を懸けて戦うという展開は、現実の黒人間における経済格差を象徴的に表しているといえよう。ワカンダ前国王の弟は、この格差をなくそうとして、ワカンダの最新科学技術を庶民に公開しようとし、ブラックパンサー(前国王)によって殺されてしまう。これをキルモンガーは同胞殺人として告発し、現国王のティ・チャラに戦いを挑んでいく。
公民権運動は学校の教科書にも掲載されるほど、道徳的で人道的な社会運動として評価されている。だが、それによってさらに困窮を強いられてしまった人々、またその子孫たちのことを見つめ直す機会はあるのだろうか。そんな問題提起が映画「ブラックパンサー」には込められていたのである。
さらにこの時代、ドナルド・トランプ大統領は「米国第一主義」を打ち出した。これも、ワカンダ王国を「米国」に置き換えることで、白人主流の国家建設を優先し、移民や有色人種、そして他の国家を顧みない方向性が、ワカンダ王国のあり様と重なってくるところである。移民を無制限に受け入れるなら、確かに国家は破綻してしまう。しかしそうなることを恐れて、その門戸を閉ざすという発想は、ワカンダ王国が自国の最新技術を決して他者に知られないように覆い隠すその精神に通じるものである。
このような現状に対しても、キルモンガーは鋭く批判の目を向けさせる役割を担う。だから観客は、単なるヒーロー映画で勧善懲悪の物語を見せつけられるのではない。虐げられ、疎まれ、そんな中から必死にはい上がって、人々に公義を問う役割が、あろうことかヒーロー映画の悪役であった、という展開に心奪われ、現実とのリンクを感じることになるのだ。
映画「ブラックパンサー」と聖書の言葉
象徴的なのは、すべての事件が解決した後、国連でティ・チャラが発するこの言葉である。
「賢者は橋を架け、愚者は壁を造る」
ここにトランプ大統領を意識しない者はいないだろう。そしてワカンダ王国は、自らが持つ科学技術を世界に公開することになる。ここで映画は終わる。
チャドウィック・ボーズマン扮するティ・チャラが語った言葉に通じる聖書の言葉がある。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:14~15)
ここで語られる「キリスト」は、賢者の象徴である。その彼は、自らが十字架にかかることで、その愛と公正を示し、私たちの罪を担うという働きをなし遂げてくれた。チャドウィック・ボーズマンは決してキリストではないし、彼の信仰姿勢もどのようなものかは分からない。だが、映画で示されたティ・チャラの決断は、いとこに当たるキルモンガーが命を懸けて訴えたメッセージをしっかりとくみ取り、それを国連での演説に生かしている。ブラックパンサーとキルモンガー、その対照的な二つの輝きが一つに合わせられることで、ティ・チャラは「賢者の道」を歩む決断をしたのだろう。聖書的に見るなら「キリストの賢さ」を体現したということである。
映画を通して現実社会の問題に目を向けさせ、(公民権運動の)歴史の暗部も含めた再評価を提示するあたり、確かに映画「ブラックパンサー」は単なるヒーロー映画の域を超えている。そしてひいき目に見るなら、その先には米国の建国理念と深く通じる「キリスト教」的な友愛の精神をも感じさせる、崇高な作品ということもできよう。
つくづく、チャドウィック・ボーズマンの死が惜しまれる。とはいえ、彼が残した作品群の中でもひときわ異彩を放つ本作は、きっと記録的なヒット作としてのみならず、人々の記憶にも残る名作となっていくことだろう。
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