いわゆる「毒親」の話である。実際に起きた「少年による祖父母殺害事件」に着想を得て、「日日是好日」「光」の大森立嗣監督がオリジナル脚本で描き出した「問題作」。個人的には「さよなら渓谷」のような、ひりひりする人間ドラマが好きだったので、期待しながら劇場へ足を運んだ。そしてかなりの満足を得ることができた。
主演は長澤まさみ。いわゆる「セカチュー」現象で、美少女演技派女優として人気を博し、一時期低迷したともいわれていたが、最近は飛ぶ鳥を落とす勢い(昨年は「キングダム」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞)で、「今一番売れている」女優の一人である。本作に続き、23日には「コンフィデンスマンJP プリンセス編」の公開も控えている。
とはいえ、今まではどちらかというと「非汚れ役」が多かった。しかし本作でいわゆる「新境地」を開拓したということだろう。演じた本人も語っていたが、おそらく観客の誰一人として彼女が演じた秋子というキャラクターに感情移入する者はいないだろう。
物語は、働かずに公的援助を受けながら生活するシングルマザーとその息子の数年間を追う内容となっている。定職に就かず、生活保護費や児童手当はすべてパチンコなどのギャンブルに費やし、親や妹から借金をしまくり、そして行きずりの関係で子どもを妊娠するという、私たちが考え付く限りの「最低」をこれでもかと描き出すその展開は、観ていて決して気持ちのいいものではない。
善意で叱ったり、援助の手を差し伸べてくれたりする存在が時々登場するため、そこで事態が好転することを私たちは期待させられる。だが、期待する分、そうならなかった時の落胆は激しいものになる。そんな展開の連続の果てに、最も凄惨な事件が発生するのだから、多くのレビュワーが「胸糞(むなくそ)映画!」と憤慨するのも分かる。
だがその一方、私の中に、ある種異なる感覚が芽生えてきたのも事実である。それは、ここまでひどい自堕落ぶりではないにせよ、そこかしこに「何となく分かる」と思わせられる展開があるからである。例えば、秋子とその母親との会話の場面。その激しい口論を見せ付けられ、かつて私と私の母との間で交わされた「あの時の会話」が鮮明によみがえってきた。これなど、今だからこうして語ることができるが、当時は「最も思い出したくない出来事」の一つであった。
本作は、秋子と子ども(中盤以降、女の子が一人増える)の遍歴をたどりながら、作品を観る私たちの過去に起こったさまざまな「軋轢(あつれき)」や「衝突」、そして「葛藤」をフラッシュバックさせられるようである。それらすべてが人間の暗部、キリスト教用語では「罪性」に当たる。
そう捉えるなら、実は「まったく感情移入できない」と語る人ほど、実はその中に自らの過去を見いだしており、それを直視したくないが故に「全然共感できない」と突き放さざるを得ないのではなかろうか。
聖書の中に、使徒パウロが「罪」について語る名聖句がある。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:18~24)
パウロがこの境地のまま生涯を送ったかどうかは議論の余地がある。しかし新約聖書の大半を書き、キリスト教の基礎を築いたとされるパウロですら、こういった自分の「どうしようもなさ」に対する葛藤を抱えていたことは間違いない。
だとするなら、私たちは救いようのない一人の女性の半生を描いた本作に対して、単に「胸糞映画」とカテゴライズするだけではなく、そこにあぶり出されている人間の罪性の「愚かさ」と「どうしようもなさ」に真正面から向き合う時間も必要なのではないだろうか。
終盤、母にそそのかされて祖父母を殺(あや)めてしまった息子・周平が自分の心情を吐露する場面がある。ハリウッド映画であれば、ここが一番のクライマックスとなるはずなのだが、本作はここでも思わず「え?」と絶句してしまう展開となっている(少なくとも私にはそう思えた)。「この状況で、しかも自らが懲役刑を受けながら、それでもそんなこと言うか?」と。
観終わって、松本清張の小説を映画化した「鬼畜」を思い出した。本作はある意味、令和版「鬼畜」なのかもしれない。しかし、野村芳太郎監督が「鬼畜」で描き出したのは、それでも親を信じたい、という幼き子どもの「けなげさ」である。「信じたい。でも信じられない」そういった葛藤を見事にクライマックスに持ってきて、私たちは初めてそこに感情移入できる存在を見いだし、カタルシスを得ることができた。だが本作は、そんなカタルシスを決して与えてはくれない。現実はそんな甘くない、ということだろうか。それともそれくらい人の中にある罪性はどす黒く、また奥深いものだ、ということだろうか。
鑑賞してから約1週間たつが、いまだに答えは出ていない。そして誰かと語り合いたくなる。本作は、観るのにかなりの覚悟がいる。しかし人の罪性、負の連鎖の現実などを深く考えるには最適の一作といえるだろう。新型コロナウイルスの影響で夏の大作がほとんど公開されない異常事態となっている今だからこそ、いろいろ刺激を受けるという意味で、本作を鑑賞し、誰かと語り合ってみるのもいいのではないだろうか。
■ 映画「MOTHER マザー」予告編
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