2016年1月に捜査が開始された「プレナ神父事件」。フランスのカトリック神父が信者家庭の少年たちに性的暴行を加え続けていたことを告発するこの事件は、カトリック界に激震を与えるものとなった。今年3月、1審でベルナール・プレナ(元)神父に禁錮5年が言い渡されたが、その後プレナ氏は控訴している。
「カトリック神父が少年たちに性的な虐待(および暴行)を加え続けていた」という事件は、2016年の第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した傑作社会派ドラマ映画「スポットライト 世紀のスクープ」が記憶に新しい。これは米国で端を発した同様の事件を記者たちが追い、スクープとして新聞掲載までこぎ着けるという、いわば「第3者的視点」で描かれていた。
しかし、本作「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」は、実際に被害に遭った人々の視点で、その後の人生をどう生き、また家族が彼らの告白をどう聞き、どう行動していったのかを、ドキュメンタリータッチで描き出している。また、舞台もフランスに限定されている。
物語は、冒頭から何やら不穏な空気を醸し出す。「君もプレナ神父に触られたのか?」 主人公のアレクサンドルは、友人からこう問い掛けられる。彼はすでに40歳になっており、結婚し家庭を持っている。敬虔なカトリック信者として、今でも教会に仕え、リヨン大司教のフィリップ・バルバラン枢機卿とも懇意にしていた。子どもも2人与えられている。
しかし彼はこの一言で、かつて自分の身に起こった「忌まわしい出来事」の封印を解く決意をするのであった。バルバラン枢機卿に相談すると、「断固とした処分を下す」と口では言うが、なかなかプレナ神父への具体的な処罰を実行しようとはしない。それに業を煮やしたアレクサンドルは、ついに警察に告訴状を提出し、捜査を依頼するのだった。
少しずつ「実は俺も・・・」と、被害に遭った者たちが集められてくる。結果的にその数は80人を超えるのだが、この「被害者の会」の結成とその先にある葛藤を描くのが本作の肝となっている。
驚くべきは、物語が始まってわずか数十分で、アレクサンドルと、かつて彼に性的虐待を加えたプレナ神父とが直接面会するシーンが用意されていることだ。実際にそのような時系列で進んだのだろうが、従来の「映画の定石」からいけば、「ラスボス登場」は物語のクライマックスであるべきだ。
しかし、こんな早い段階でプレナ神父との対決を持ってきたのには理由がある。それは、プレナ神父一人の問題ではなく、カトリック教界全体にまん延する「悪しき習慣」とでもいうべき犯罪が、数十年間にわたって行われ続けてきたということをえぐり出すことを目的としているからである。
さらに恐ろしいのは、プレナ神父はアレクサンドルから「あなたは少年時代の私に性的な暴行を加えましたね?」とストレートに問われ、「そうだ。覚えている」と罪を認める告白をしていることだ。続けてプレナ神父はこう言う。「私は病気だ。これをやめることができない」
何の良心の呵責(かしゃく)も感じられないトーンで、淡々と自らの「行為」を語るこのシーンは、自分のしたことがどんな大きな罪なのかをまったく自覚していない「怪物」の姿を描き出している。さらにこのような「怪物」が他にも大勢いて、彼らを叙階したカトリック教会の指導者たちは、問題を起こした神父たちを「配置転換」するだけで、まったく問題の本質に切り込んでいなかった(切り込む必要もないと思っていた)ことを、この作品は「淡々と」あくまでもそれが当たり前のことであるかのように、極端に感情的な揺さぶりをあえて避ける手法で描き出していくのである。
本作の脚本・監督は、世界3大映画祭(ベネチア、カンヌ、ベルリン)の常連であり、世界的に名が知られているフランソワ・オゾン氏。日本ではまだ、ミニシアター系で上映される程度の知名度だが、国際映画祭で賞を総なめにするその力量は世界的にも認められている。ちなみに本作も、第69回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞している。オゾン氏はインタビューでこう語っている。
「私にとって重要なのは子ども時代に傷つけられた男性たちの心の奥を語ることと、彼ら被害者の観点からストーリーを語ることでした。彼らの経験と証言には忠実でありつつ、周囲の人々やその反応については自由に描きました」
つまりプレナ神父の「怪物」ぶりも、実際に被害に遭った人々の視点で描き出されたものだということだろう。実在のプレナ(元)神父は、本作の公開に難色を示し、映画公開延期を求めて裁判を起こしたという。上映許可が下りたのは、何と公開2日前のことだった。フランスのメディアはこの映画が無事に公開されるかどうか、大いに注目したという。
本作は、虐げられた者たちの回復の物語である。しかしそれを、ハリウッド映画のように、感傷的な音楽やお涙頂戴的な演出で描き出してはいない。あくまでもドキュメンタリータッチで、彼らの逡巡(しゅんじゅん)や決断を「そのまま」切り取るという手法を採っている。
物語の最後に、とある人物から主人公たち(すなわち被害者たち)に対して、こんな質問が投げ掛けられる。
「それでもあなたは神を信じますか?」
その言葉とともに、彼らの一人の瞳がクローズアップされていく。目が大きく開かれ、その問い掛けにどう答えようか逡巡する。
ここで観客である私たちは、自らが問われることになる。「自分だったらどうか。信仰を導いてくれた存在が自分を虐待し、そのどす黒い欲望のはけ口に少年時代の自分を利用していたのだとしたら。それでもその導き手が伝えた神は『神』として信仰することができるのだろうか」
「グレース・オブ・ゴッド」とは、何と皮肉なタイトルだろう。しかも本作では、この言葉が最も似つかわしくない場面で一度だけ登場するのだから。
そして私たちも問われることになる。「それでもあなたは神を信じますか?」と。その答えはまちまちだろう。そうなることを想定して、オゾン氏は作品を「オープンエンド」にしたのかもしれない。
本作は、観る側の私たちを試す作品でもある。クリスチャンであると自認する人は、ぜひご覧になっていただきたい。7月17日(金)から、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで全国公開される。
■ 映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」予告編
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