テレンス・マリック監督(76)。寡作ながら、生み出された作品は何らかの国際映画祭で賞を獲得するという伝説の映画監督である。古くは「天国の日々」(1978年)でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。その後20年間の沈黙を破って撮ったのが「シン・レッド・ライン」(98年)。第2次世界大戦を題材に撮り上げたこの作品は、当時話題をさらったスティーブン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」をしのぐ評価を専門家から得て、ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞を獲得。わずか2作品でレジェンドの仲間入りを果たした。
その後、ブラッド・ピット、ショーン・ペンなどのハリウッド有名俳優と作り上げた「ツリー・オブ・ライフ」(2011年)は、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞。さらに、アカデミー賞の監督賞にも2度ノミネートされた経験がある。そんなマリック監督の最新作が、今回取り上げる「名もなき生涯」である。
時は1939年。オーストリアの小さな村、ザンクト・ラーデグントから物語は始まる。平凡な農家の出身であるフランツは、ファニという美しい娘と結婚し、3人の娘を授かる。この若いカップルは、慎ましやかに暮らしていたが、第2次世界大戦でオーストリアがナチス率いるドイツに併合されたことで、戦争の影を感じるようになる。
当時のオーストリアは「ドイツ支持」で表面的には一致していた。町や村の代表者たちはもとより、カトリック教会の神父ですら、本音を隠しながらナチス歓迎の姿勢を見せていた。そうしなければ生き残っていけない情勢だったのである。そんな中、フランツは自身の信仰(カトリック)を理由に、兵役を拒否する。一人反対の声を上げた彼は、次第に孤立し、家族も含めて村八分にされていく。そしてフランスがドイツに降伏し、欧州で戦火が拡大したことで、フランツにも召集令状が届くことになる。この命令に背くなら「反逆罪」となり、確実に死刑を宣告される。だが彼は「罪なき人は殺せない」と語り、ナチスおよびヒトラーへ忠誠を誓うことを頑なに拒み続けるのだった。
第2次世界大戦下のドイツによるオーストリアへの圧力を描いた傑作として、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)が挙げられるだろう。主人公マリアが結婚するトラップ大佐はオーストリアの士官で、ナチス・ドイツの命を受けて戦地へ赴かなければならなくなり、苦悩する。そして音楽祭の最中に決死の脱出劇を敢行する。音楽祭で「エーデルワイス」を歌いながら祖国オーストリアを思い、聴衆が立ち上がってこの歌を合唱する場面は、音楽の力をまざまざと見せつけられるシーンである。反戦のメッセージが見事に乗せられている。
だが本作「名もなき生涯」はノンフィクション性が高いため、皆がスカッとするようなハッピーエンドからは程遠い。フランツが死刑に処せられるまでを、淡々と描いていくのだ。万力でキリキリと締め上げられるような閉塞感が漂っている。
劇中、何度もフランツを説得しようとする人々が登場する。一人は彼が住む村の村長。別の一人は反逆罪で裁かれることになったフランツを弁護する役を仰せ付かった弁護士である。彼らは図らずも同じことを口にする。
「大事なのは心だ、言葉じゃない。だから忠誠を誓うとだけ言いさえすれば、それで済む」
同じようなシチュエーションを描いた作品として、真っ先に思い当たるのが遠藤周作の小説が原作のマーティン・スコセッシ監督による「沈黙―サイレンス―」(2016年)である。イッセー尾形演じる長崎奉行の井上筑後守が、イエズス会宣教師のロドリゴ神父に、こうささやきかける。
「形式でいいのじゃ。軽く(踏み絵を)踏みさえすれば」
対照的なのは、「沈黙」では、ここから主人公の内面の葛藤が描かれるのに対し、本作「名もなき生涯」では、彼は確かに苦悶(くもん)の表情を浮かべはするが、自身の信仰を疑ったり、それを捨てようとしたりする素振りは見せない。徹底して、己の信じる道を歩み続ける固い決意が感じられる。それを堂々と愛する妻や娘たちにも伝え、動じる様子がない。そういった意味で、この “西洋版「沈黙」” は、かなり硬派な作品である。
同時に「大事なのは心だ、言葉じゃない」というセリフを、方便として用いることを徹底して否定する強さを示している。フランツの生き方は、「心 or 言葉」ではなく「心=言葉」なのである。それは信仰者がその根源に抱く基本的なものの捉え方でもある。言葉を「言魂(ことだま)」と言い換えてもいいくらいに大切にする姿勢は、キリスト信仰の原則でもある。だから「主の祈り」は2千年間唱え続けられ、さまざまな信仰告白が全世界の言語に訳され、今日もキリスト者はそれを自らの信仰告白として唱えるのだ。
だが、悲しいかな歴史的に見るキリスト者の歩み(キリスト教史)は、しばしば過ちを犯している。その最たるものが、ナチズムに迎合しつつあった第2次世界大戦下のキリスト教会である。本作はカトリック信仰者が主人公だが、プロテスタント世界に目を向けてみると、ナチズムに支配されつつあった当時のキリスト教会の姿勢を鋭く非難したのがカール・バルトを中心にして1934年に出された「バルメン宣言」である。また、ディートリヒ・ボンフェッファーのように実際にヒトラー暗殺計画に加担した者もいる。
彼らは皆、神学者・牧師であった。これはどういうことなのか。学者は「象牙の塔」の中で過去の文献を繰っているだけの、か弱き存在ではないのか。牧師は「神の言葉」と称せられる古文書(聖書)を、浮世離れした感覚で人々に説くだけの存在ではないのか。戦争や天変地異が起こるとき、人々はしばしばこのような感覚で「言葉(およびそれを説く者たち)」を軽んじようとする。形式と本音を切り分けて生きざるを得ない、と誰もが思うからだろうか。
しかし、答えは「否」であった。彼らは皆、「心=言葉」という信仰姿勢を抱く「生きた神学を実践する者たち」「生きた聖書の言葉を語る者たち」だったのである。「永遠が歴史に突入した」と語る神学者バルトだからこそ、「言葉なるキリスト」がやって来た(受肉した)この地上世界を、神の前に正す必要性を人一倍感じられたのであろう。聖書を通して語られる言葉が、単なる「形式的な言葉」ではなく、そこにこそ「心」と「いのち」があると信じる神学者・牧師たちだったからこそ、自らへの危険を感じながらもバルメン宣言を発し得たのであろう。
本作「名もなき生涯」は、欧州に根付くキリスト信仰の力強さと、その反面で形式的に流されやすいキリスト教会の相克を見事に描いている。これを歴史的側面から考察できれば面白い。同時に、このような葛藤は、キリスト信仰者の内面で常に繰り返される問題でもある。そういった意味で、本作が突き付ける主題は、神学的問題としてだけではなく、個々人の信仰的問題として捉え、語り出す方法もある。
多面的な人間のあり様を、3時間弱で見事に描き切ったマリック監督。確かにその手腕に酔いしれるには十分な大作である。一人の男性の殉教を描くという意味では確かに暗い話である。しかし、登場人物たちの背景として描かれる欧州の壮大な山々、自然光で撮影されたからこそ捉えられた木々の緑は、観る者に開放感を与えてくれる。自らの信仰の在り方をも考えさせられるという意味で、信仰者には必見の一作であるといえよう。
■ 映画「名もなき生涯」予告編
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