ストリーミング映画が従来の「映画」であるかどうかという問題が、昨年来かしましく議論されている。確かに私も「これは大型スクリーンで観たいな」と思わされる作品をDVDで鑑賞せざるを得ないとき、口惜しい思いを抱くことがある。しかしだからといって、「劇場公開しない作品は映画ではない」と言うのは横暴だと感じる。近年、そう感じさせられる優秀なストリーミング映画に出会うことが多い。
例えば、昨年紹介した「アイリッシュマン」など、その一つである。また、21世紀の「クレイマー・クレイマー」ともいわれている「マリッジ・ストーリー」のリアルさは、結婚生活を営むすべての夫婦必見の一作である。そして、このいずれもが「ネットフリックス(ネトフリ)映画」である。その勢いは、第92回アカデミー賞の主要部門ノミネート結果からも感じさせられる。先ほどの2作品は共に作品賞にノミネートされた(残念ながら受賞はならず)。また、主演男優賞には5人中2人、主演女優賞、助演女優賞、監督賞には1人ずつが、ネトフリ作品からノミネートされている。特にすごいのは助演男優賞である。何と5人中3人がネトフリ作品で占められているのだ!
そんなネトフリの勢いをそのまま感じさせる作品が、今回取り上げる「2人のローマ教皇」である。本作は、米大統領と並び映画作品では最も多く題材として取り上げられるローマ教皇をめぐる物語である。しかも、架空の存在や歴史的に時間の隔たりがあるかつての教皇を描くのではなく、人々の記憶に新しく、かつ存命中の教皇たち(名誉教皇のベネディクト16世と現教皇のフランシスコ)を取り上げた作品なのである。
かといって、堅苦しいドキュメンタリータッチの社会派作品ではない。むしろ史実を映画的に都合よく歪曲させ、対照的な2人の人物像を際立たせることで、どこにでもありそうな「引き際」と「継承」をめぐる人間ドラマに仕上がっている。ベネディクト16世役に「羊たちの沈黙」の名優アンソニー・ホプキンス、後に教皇フランシスコとなるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿役に「天才作家の妻 40年目の真実」のジョナサン・プライスが配役されている。彼らはそれぞれ、助演男優賞、主演男優賞で、第92回アカデミー賞にノミネートされた。
映画の物語は2012年、カトリック教会の司祭たちによる少年たちへの性的虐待が明るみに出た直後から始まる。時の教皇ベネディクト16世は、この事実を前にカトリック教会の危機を感じていた。そんな中、保守的で体制維持に汲々(きゅうきゅう)とするカトリック教会に嫌気がさしたベルゴリオ枢機卿は、教皇に辞任の意向を伝える。すると教皇から直接会いに来い、というお達しが伝えられるのである。
彼らは、ベネディクト16世が教皇となる前からそりが合わない存在として互いを認識し合っていた。だからベルゴリオ枢機卿は今回も、何か腹に一物抱えて会談しなければならない予感を感じていた。しかし、カトリック教会で教皇からのお達しを受けるということは、神から呼び掛けられたに等しい。謁見の機会に、直接きちんと辞意を伝えようと決意したベルゴリオ枢機卿は、教皇の避暑地へと向かうことにするのだった。ところが教皇に会って話を切り出したものの、教皇は辞表を受理しようとしない。いら立ちながらも教皇と語り合うことになったベルゴリオ枢機卿。やがて2人の会話は意外な方向に転がり始めるのだった・・・。
物語のほとんどが「おじいちゃん」同士の会話で成り立っている本作は、ともすると退屈極まりない映画となってしまう危険もあったろう。しかし、名優アンソニー・ホプキンスのとぼけた演技と、今回、主演男優賞にノミネートされたジョナサン・プライスの真摯(しんし)なたたずまいがコラボすることで、面白い化学反応が生み出され、それが観る者の心をつかんで離さないのである。
観終わって、これは聖職者版「男はつらいよ」だなと思わされた。全世界に12億人の信者を抱えるカトリック教会の頂点にして、半ば「現人神」たる責務を負わざるを得ない「教皇」という立場は、なろうと思ってもなれないし、一旦なってしまえばその役職を投げ出すことなど到底不可能である。そんな特殊な立場に置かれた人間は、一体何を考え、どんな生き方を志すのか。教派の違いこそあれど、同じく「神にお仕えする立場(牧師)」に召された者として、なぜかシンパシーを感じてしまった。
しかし見方を変えるなら、それは神と出会い、神に導かれて今の在り方を選び取ったと考えるキリスト者すべてに共通する思いではないだろうか。そういった意味で本作は、一流の製作者、演者たちによる極上のエンターテインメント作品であると同時に、「神に召されてしまった」多くのキリスト者たちの「言うに言えない本音」を吐露している宗教ドラマとなっている。
人は自らの現在に疑問や不安を感じるとき、そこに至るまでの原点を模索する。特にカトリック教会の司祭やプロテスタント教会の牧師の場合、それは「神に召された」瞬間であったり、「神と出会った」出来事であったりする。その過去の自分を現在の自分が振り返ることで、そこまでの道のりを確かに歩んできたことを確認し、またその歩みを導き、庇護(ひご)を与えてくれた超自然的な存在(すなわち神)の確かさを認識することになる。
それほど人は「弱い」生き物であり、「有限な」存在である。この過去の振り返りなしには、未来を思い描くことができないのだろう。劇中何度も「告解」シーンが出てくるが、本作が製作されたこと自体、もしかしたらカトリック教会のみならず、聖書で「神の像(かたち)」として、被造物の最高位に位置付けられてしまった人間の「時にはつらいこともありますよ」的な「告解」と受け止めることもできるのではないだろうか。
本作はぜひ、カトリックの方のみならず、プロテスタントの方、特に牧師の皆さんに鑑賞してもらいたい。また、クリスチャン同士で鑑賞するなら、その後の感想会がいつしか自分たちの「証し大会」へと変化していくことだろう
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