大学院生時代に「新約聖書神学」を受講したことがある。新約学の大家、H教授はこんなことをおっしゃった。
「福音書の中には、イエス自身が実際に語ったであろう言葉と、弟子たちが彼らの信仰を通してイエスに語らせた言葉があります。そしてほとんどの研究者が一致して、これはイエス自身の言葉だと認めている箇所があります」
いかにもリベラル神学的な発言だが、ではその箇所とはどこだろうか。それが、マタイによる福音書6章31~34節(33節は除く)である。
31 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。
32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
そして、H教授はこう付け加えた。
「まあ、これは『その日暮らし』ということですね。こんなことができるのは、『フーテンの寅(とら)さん』くらいのものですよ(笑)」
この時、私の中でイエスと寅さんが重なった。
さて、昨年の映画界はさまざまなシリーズ物の「完結編」が公開された。4月にはマーベル映画の集大成「アベンジャーズ / エンドゲーム」、また6月には(地味に)「X-MEN」シリーズも幕を閉じた。そして最も新しいものでは、42年に及ぶ「スター・ウォーズ」シリーズの歴史に幕を下ろすことになった「スカイウォーカーの夜明け」がある。このようにハリウッド超大作シリーズが華々しく「完結」していく中で、これらの作品群以上に長寿を誇る日本映画が「完結」の時を迎えている。それが「男はつらいよ」シリーズである。
「フーテンの寅さん」といえば、その作品を知っている世代も知らない世代も、皆あの風貌はどこかのメディアで目にしたことはあるだろう。背広に腹巻、雪駄(せった)に帽子、首からお守りという、明らかに「異質な風貌」は、1969年の第一作(厳密には前年のテレビシリーズから)公開以来、日本の男性陣から絶大な支持を受け、いつの頃からか日本のお正月映画(一時期は夏も新作を公開していた)の風物詩となって、95年までに48作が製作された。しかし、主人公の寅さんを演じた渥美(あつみ)清の急逝により、本シリーズはあっけない幕切れとなってしまった。その後、再編集版の49作目「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」が97年に公開されたが、やはり「再編集」という域を出ないものであった。
そして昨年末、何と「男はつらいよ」シリーズの最新作が公開となった。第一作公開から50年目の、しかもちょうど50作目という触れ込みで、「男はつらいよ50 お帰り寅さん」(以下、「お帰り寅さん」と記す)が人々の目にするところとなったのである。しかも前作のようなかつての作品の再編集版ではなく、令和に移り変わった現代が舞台の物語である。
これを聞いた人々は、「どうやって寅さんが帰ってくるの?」「一体どんな物語になるの?」と、不安と期待が入り混じった気持ちで待ち望んでいたであろう。
筆者は本作を昨年の大晦日に鑑賞した。そこで思い出したのが冒頭で紹介したH教授のコメントである。「お帰り寅さん」は、見事な続編であると同時に完璧な「完結編」であった。そしてそのことは、新約聖書の福音書成立の経緯と図らずもよく似ている。共通項は「不在の在」である。
ご存じのように、四福音書はイエス昇天から数十年の時を経て記されている。最も早いといわれるマルコによる福音書にしても、それが書かれたのは、イエスが地上の生涯を終えて30年以上も経過してからである。さらにヨハネによる福音書に至っては、60年から70年近いだろう。
ここからは信仰の領域に入ってしまうので、断定的には言えないが、彼らは目の前に肉体を伴って存在するイエスから助言を求めたり、直接インタビューしたりして福音書を書いたわけではない。彼らは「生前のイエス」を思い起こし、イエスと共に過ごした日々、出来事、言葉を、各々の信仰というフィルターを通して文書化している。これが「福音書」のコンセプトである。その中でも、マタイ、マルコ、ルカは「共観福音書」と呼ばれるように、同じ視点をある程度まで共有している。
本作「お帰り寅さん」は、寅さんの行方に関しては誰も触れない。言い換えると、今この瞬間にどこかで生きている「車寅次郎」を人々は当たり前のように受け止めている。しかし、一度も生身の姿を彼は現さない。そして「寅さんの周りにいた人々」が回想するシーンで生き生きとした姿を披露している。それからまた現代劇が継続される。すると2階に通じる階段の途中や椅子に一瞬だけ寅さんの姿が映し出される。しかし、それもすっと消えていく。
一方、鮮明に聞こえてくるのは、寅さんの声である。かつて彼が映画の中で発した「言葉」が、悩みを抱えている「寅さんの周りにいた人々」の生活描写にかぶさってくるのである。
そして最後に特筆すべきは、寅さんにかわいがられたおいの満男が、現在は小説家として活躍しているということだ。彼は作品のラストで、新しい物語を書き始める。そこから始まる15分間は、「男はつらいよ」と共に人生を過ごしてきた人にとってはたまらない展開だろう。
作品は現代劇であるが、「不在の在」として確かに物語の中心には「寅さん」がいる。これは、イエスと共に実際に過ごした(とされている)福音書記者たちが、目の前からイエスが消えて後も、彼の言葉や存在を思い起こし、ついにそれを人々に知らしめるために書にしたためる作業をしたのと同じである。おいの満男が「文筆家(小説家)」として、敬愛する寅さんのことを書きつづるという展開も、イエスと福音書記者の関係によく似ている。
そういう視点で本作を観るとき、これは現代日本人に宛てた「共観福音書」的な一作と言えるだろう。
■ 映画「男はつらいよ50 お帰り寅さん」予告編
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