本紙編集長兼論説主幹であった宮村武夫先生が8月16日朝、80歳で天に召されてから10日余りがたちました。2014年4月に編集長として就任されて以来、毎月2回の編集会議を中心に、約5年間さまざまな面で指導いただき、支え、励まし、そして共に歩んでくださいました。本紙一同、宮村先生の愛労に心から感謝するとともに、ご遺族、ご関係者の方々の上に主の深い慰めがありますようお祈り致します。以下に、宮村先生が生前親交のあった方々から頂いた追悼の言葉を掲載致します。
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堀内顕 グレース宣教会長老牧師
人の死は、思いがけない時に来ます。こちらの都合ではありません。天地の支配者である神の聖旨です。故宮村武夫牧師とは、私が学生で彼が開成高校生の時からの交わりです。キリストを信じ、救いを経験して、喜びと宣教情熱に燃えているとき、同窓の吉枝隆邦君の紹介でした。開成から東大コースではなく、独立伝道者・萬代恒夫先生に付いて神と人々に仕える道を進みました。後には、知的必要を覚えてハーバード大学まで研修しましたが、いつもキリストの僕であることに徹して、創造主を信頼して奉仕してこられました。それは、救い主であり、主であられるキリストに付いていく人生でした。神と共に生きる彼の口癖は、「侮るな!たじろぐな!」でした。優しい心を持ちながら大胆な信仰的行動、発言でした。今、彼が召された御国は、にぎやかになりましたが、地上のわれらは寂しいです。残された奥様、君代さんやご家族のために、主の深い慰めがあるように祈り上げます。
市川康則 日本キリスト改革派千城台教会牧師
宮村武夫先生を偲んで
敬愛する宮村武夫先生が召天されたとの報に接し、驚きと悲しみを禁じ得ません。ご遺族様はじめ関係の皆様の上に、復活の主イエス・キリストにある確かな希望と深いお慰めがありますよう、切にお祈り申し上げます。私は宮村先生とは普段お会いすることはありませんでしたが、まだ神戸におりましたときに、2~3度お目にかかり、大変親しいお交わりを与えられました。その時、重厚かつ軽快なお人柄とお見受けしました。とても印象深い方でした。先生は「喜びカタツムリの便り」を刊行しておられましたが、そこに俳句が2つあるのに目が留まりました―「ゴルゴタに担われ進むカタツムリ」「ゴルゴタを担いて歩むカタツムリ」。キリストとわれわれ弟子との不可変の関係(恵みと務め)を見事に表しています。私はこれらの句に七・七を付けて短歌にしました。先生には私の戯言(ざれごと)として退けてくださいとお願いしましたが、何と、後にその歌を載せ続けてくださり、もったいなくも「改革派教会の市川康則先生との合作」と注記までしてくださいました。申し訳ない思いと、先生のお人柄に引き付けられる思いがしました。御国での再会が楽しみです。
稲葉裕 救世軍清瀬病院院長
宮村武夫先生とは、高校生聖書伝道協会(hi-b.a.=ハイビーエー)を通しての交わりがあり、1978年の hi-b.a. 支援会発足の時に、お願いして最初の理事長をお引き受けいただいたことが、忘れ難い思い出です。幅広い信仰の視野を持っておられ、著書を通しても多くのことを教えられました。天国での再会を楽しみにしています。ご遺族の方々に主の豊かな慰めがありますように。
田頭真一 葦の会・オリブ山病院理事長
主と共に歩んだ宮村武夫先生
宮村武夫先生の御国への凱旋を覚えつつ、君代夫人、ご家族、ご兄弟姉妹の皆様の上に、主の慰めを心より祈ります。先生と初めてお会いしたのは、先生ご一家が大きな犠牲を払って沖縄での宣教の業に就いたまさにその年、赴任先の首里福音教会においてでした。その当時の教会堂は、トタン製のかまぼこ型兵舎(コンセット)を利用したものでした。その年、私が留学先を祈り求めているときに、非常に意義深いご指導をくださいました。その後も、この未熟者に講演や礼拝説教の機会を与え、近年では小生の著作出版の発起人をしてくださり、クリスチャントゥデイでもこの者の働きの紹介をしてくださいました。まさに、後進を育てるというパウロのようなお働きの恵みを頂きました。走るべき行程を走り尽くした宮村武夫先生の宣教者としての歩みに、しばしの別れの時の寂しさを覚えつつも、成し遂げられた主のお働きへ敬意を表し、天の御国での再会を心待ちにして、追悼の意とさせていただきます。
鮫島茂 青梅ちいろば聖書教会責任者
宮村武夫先生とは、約50年間お付き合いをさせていただきました。先生のことを考えると、あまりにも多くのことがあるので、限られた字数の中で何を書いてよいのか戸惑います。若い時には、迷惑や心配をかけ続けたにもかかわらず、深い愛とご配慮をいただき、ご指導をし続けてくださいました。私が30歳の時、先生が牧していた教会附属の幼児園の働きを勧めてくださり、35年間園長として働かせていただきました。しかし、ある事情からその働きをやめて、新しい旅立ちを決意したときも、先生は支持と協力を惜しまず示してくださり、私たちの集会に牧師として毎月1回、遠距離でご不自由な体にもかかわらず、来てくださりご指導くださいました。突然の訃報に戸惑う者ですが、先生のお働きを考えると、主からの業の完走を確信します。今は、つらい闘病から解放され、主のもとで安らいでいることでしょう。先生、天でお会いしましょう。
大坂太郎 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団山手町教会牧師
あれは今から11年も前、神戸で開催された福音主義神学会の全国研究会議でのこと。いかにも牧師然とした参加者の一団に、一人だけ異彩を放つ人が居た。その姿は「寅さん」そのもの。しかもこの「寅さん」が実に活発に質問するのだ。驚きを禁じ得なかった。そのセッションの最後、その年から部会理事会の末席に連ねられた私は終祷者に指名され、祈った。すると、例の「寅さん」がこちらに向かってくるではないか。「君、君は・・・ペンテコステだろ。祈りで分かったよ(もちろん異言で祈ったわけではない)。大坂君というのか」。これが宮村武夫先生との出会いだった。その後も神学会や、先生が信仰に導かれた小岩栄光キリスト教会などでお会いするたびに声を掛けてくださった。何よりも先生の「徹底した聖書信仰、徹底した聖霊信仰」という言葉は、ペンテコステ・カリスマ派と福音派の架橋的役割を担いたいという思いを持つ私にとって、この上もない励ましであった。先生と、先生との出会いを与えてくださった神に感謝をささげたい。