日本のキリスト教会の現状
日本の社会は、このように「イエ」と「職場」の2つの強力な共同体が存在し、人間はそこで安定感を得ている。であるから、それに加えて人工的な共同体などを必要としてはいないし、ましてや人為的な擬似共同体のようなものへのニーズや渇きも不在である。そのような所では、キリスト教会はどのような形態を取り、どのような性質と機能を持つに至るのであろうか。
くどいようだが、再確認しておきたい。米国社会において教会が果たしている機能を、そっくり日本社会において再現しようとしても無駄である。米国では、社会が宗教一般に対して持っている要求があるが、それが日本社会にもあるように考えたり、またそのようなものがあるべきだ、などと考えることも無駄であるし、不可能である。
米国社会にあっては、人々が孤独のあまり人為的な共同体を求めている。だれでも宗教を信じれば、同信の者と「集まり」たいと思い、当然すべての宗教が「教会」という形を取るであろうと期待する。そのような社会では教会を形成することが容易であり、人を誘うことも、日本よりはるかに容易である。
これらの特性は、日本の社会の中では見つからない。だから教会を形成するということが、米国と日本では別種の営みとなる。この点の相違を意識していないと、伝道学は「日本社会における伝道」の把握が十分でない。西洋の教科書の丸呑みでは役に立たないのであって、日本の社会の分析を自分でやる必要がある。
なるほど日本においても、所属する共同体を持たない者はいる。さ迷っていて何かに所属したい願望を持つ者はいる。一つは若者たちであろう。学生の時代、また社会人になりたての期間には、そのような傾向が認められる。彼らはまだ職場の共同体に所属していないし、職場のオジさんたちで形成されているそのような共同体は嫌悪の対象にすぎないし、また常に転職も考えている。
この年代は、家族の共同体の認識が薄い者も多い。いわば「落ち着かない」時期である。学生時代や独身時代に限ってみれば、小さな西欧人であるかもしれない。企業は彼らが早く「落ち着いて」ほしいのである。
もし教会が、このような「落ち着かない」若者たちに共同体を提供しているとすればどうか。そのときはピッタリであっても、長続きは難しいだろう。就職し、職場の共同体の一員として生活を始めると、その関係が終わり、「元クリスチャン」や卒業信者になることも多い。
塚本虎二が『友よこれにて勝て』(伊藤節書房)の中で「男は就職、女は結婚、それらを乗り越えて集会出席を続けるものは本物のクリスチャンである」というように言っているが、日本社会の中の2つの共同体とキリスト者の群れとの衝突をよく表現している。「無教会」でさえも、これら2つの共同体には苦慮している様子がうかがえる!
若者の例外は、体育会系であろう。彼らはすでに「部」という、いわばムラ共同体に所属した経験がある。そこでは共同体の名誉と成績のためには、自分の都合は犠牲になるという経験がある。そういう中での、身の処し方なども知っている。企業にとっては、体育会系の学生は歓迎である。
そのような文化的土壌の中で、日本のプロテスタント教会はどのような形態を取って生存を続けているのであろうか。
小生の観察によると、日本の教会には3つの代表的な型、または内部構造があるように思う。以下に、その三型を挙げたい。他には、このような分類をしているものを知らないのであるが、日本の教会の分析のささやかな試みである。日本の社会の中で教会が存在するためには、これら3つの形態を取ることが一番手っ取り早いようである。
それら3つの主要な性質、また内部構造は、1)無教会主義型、2)西欧化の先駆者型、3)「学習のための集団」型である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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