蓮如の宗教運動
蓮如の宗教運動は、注目に値する。ざっとその信仰の系譜を、小生なりの不十分な理解ではあるが、紹介すると次のようになる。
念仏信仰
<源信>
彼は念仏信仰を広めた。もともとヒンズー教の伝統によれば、「難行苦行」による輪廻(りんね)からの解脱が信仰の基礎である。解脱の前提は善行を積んで、次の世には最高級のカーストである王族や祭司階級に生まれることである。そこまで行けば、次は輪廻からの解脱が近いことになるのである。
下級のカーストに生まれるのは、それ自体が前世の悪行の罰なのだ。であるから、まず善行をして、上のカーストに生まれ変わらねばならない。カーストというのは大きく分けて4つであるが、実際はもっと細分化され、千ほどもある。そういうわけでヒンズーでは、救いはほとんど不可能である。王族に生まれ変わるということだけで、もう不可能である。
仏教はそれを「悟り」と置き換え、カーストを否定したことになっている。しかし仏教は、ヒンズー教の残滓(ざんし)を多く残している。「悟り」は長年の苦行によって得られるものであり、まず善行を積んで輪廻して、良家に生まれねば救いは得られない。殺生をするもの、漁夫、漁師、農夫、商売をする者は救いに与れない。その商売自体が罪であるから。また、女はその存在自体が罪業が深く、まず男に生まれ変わらねば救われないことになっているのは前に述べた。
善男善女(ぜんなんぜんにょ)とは、善行を積んで輪廻し、上流階級に生まれた者のことである。そうして良家の財物をもって、「堂塔伽藍(がらん)」を献上する。それが功徳で、救いの条件なのである。下層民ではそれもできず、下層民の場合は出家して労働から解放され、托鉢(たくはつ)して生きる以外には救いは不可能である。輪廻を信じる限り、ヒンズー的な概念は残存する。鎌倉新仏教は、これを超越した。伝統的なヒンズー的なものを捨て、人間存在を凝視した。伝統的な仏教の教理にとらわれず、新しい世界観を創造した。一般の民衆にとっては出家は必要でなく、在家のまま、または在俗のままでよい。その契機となったのが、平安末期の源信である。
もともと仏典の中には、「易行」と呼ばれるものもあり、中国においては一部にそれを信じる者たち(白蓮社運動)がいた。それによれば、菩薩はそれぞれが「化土(けど)」という自分の世界を運営している。それらの幾つかを挙げると・・・。
薬師如来・・・浄瑠璃世界
弥勒菩薩・・・兜率天(とそつてん)
阿弥陀仏・・・極楽浄土
釈迦如来・・・娑婆世界寂光土(じゃくこうど)
本来は修業し、難行苦行して「悟り」に到達する。それができない者は諦める。諦めた者、つまり意志薄弱であったり、無教育の者は、易行に頼る。
これらの化土(世界)のいずれかに「往(い)って生きる」(往生[おうじょう])のである。これも「救い」の1つである。実はこれらの化土のうちで、一番ランクの低いのが極楽世界だそうである。娑婆世界からすぐ近くで、行きやすい。(難波の四天王寺の西門のすぐそばに、極楽浄土への入り口があったという!)
また、「九品往生(くほんおうじょう)」といって、上品なもの3種、中品のもの3種、下品なもの3種に至るまで、9種類の人間が往生できる(世田谷区の九品仏浄真寺に九品仏がある)。こうして極楽浄土には、遊女や盗賊にさえも居場所が準備されている。
この極楽浄土に「往って生きる」(往生)するためには、「念仏」(仏を思う)し、称名(しょうみょう)(名号[みょうごう]を唱える)するだけでよい。名号とは「南無・阿弥陀・仏」のことで「賛美せよ・計り知れない・仏」というほどの意味である。
平安末期の源信の『往生要集』は、仏典のそこかしこにある極楽信仰を集めたものであり、中国でも高く評価されたという。この易行は、字の読めない、仏教の深い哲理を理解できない者のためであり、下層階級の者で、善行など積んでも到底良家になど生まれる目処(めど)のない者、そういう者たちのためであった。こういうような賎民のためには、「往生」という「レベルの低い救い」が用意されていた。
ところが、日本では下層ばかりでなく、貴族階級にも、富裕な商人階級にも「往生信仰」は急速に広まっていった。理由の大きなものに、女人の救いということがあったのでないかと思われる。女人の無視が伝統的な仏教の教説だったが、「往生信仰」は女人も商人も、そのままで「救い」が得られると教えた。
すでに日本では婦人の立場が確立しており、女流の思想家、文学者が存在していたことは前に述べた通りである。婦人は愛情の対象として考えられ、男は求愛の手紙を書き、愛の詩(相聞[そうもん]歌)を送り、女は応えるか、拒絶するかした。女性には、そのような自由があった。それは上流の間に限らず、庶民の間にもあった。そのことは『源氏物語』などの女流の作品、また『万葉集』などからもうかがえる。
従来の仏教の教説のごとく、女には魂がない、女は修行によっても解脱できない、などの教えは、到底日本人には受け入れがたいものだった。16世紀のポルトガルの宣教師たちは、ヨーロッパでは貴族の女でも字は書けないのに、日本では女もすべて下層の者であっても字を書き、男に従属していない。彼女たちは自由に旅行する、また、夫に金を貸し、夫から利息を取る、などと言って、驚いて本国に手紙を書いている。日本人は、仏典を探して別の仏教を発見してしまい、これをメインにしてしまった。ここに日本人の宗数的な独創性があり、こうして日本の仏教は伝統的な仏教とはほとんど別の宗教となってしまった。
もはや堂塔伽藍の寄進は必要ではなく、もっぱら念仏することだけが求められた。商人も、漁師も、農民も、その職業は罪でないとされた。
平安末期には、宇治に平等院が建てられたが、豪華、絢爛、贅(ぜい)を尽くした建物であるが、念仏堂〈阿弥陀堂:鳳凰[ほうおう]堂〉を中心としており、個人的信仰を表現した建物である。奈良時代の寺院建築の広大で高くそびえ、見る者たちを圧倒したものとはおのずと異なる。極楽信仰は鎌倉時代に入るにつれてますます広まっていった。
<法然>
源信の200年後の法然は、浄土宗を創設した。それまで極楽往生信仰は、広く横断的に多数の人により個人的信仰として行われていたが、それを法然は1つの宗派として立ち上げた。
法然は念仏往生こそが真の仏道であると主張し、もはやこれは下層の者たちのための便法ではない。これこそ、弥陀の本願であるとした。彼は『選択(せんちゃく)本願念仏集』を著し、これによって念仏信仰が、さらに広がったという。
いまや輪廻的な世界観は捨てられ、世界は今生(こんじょう)と来世(らいせ、極楽での生)の2つに分けられた。日本的な仏教が成立し、有神論的な世界構造にやや接近した。輪廻思想から自由になることによって、万人を平等に見ようとする契機が発生した。
それまでは仏僧は一生涯を学問にささげることを必要とし、特権階級のものだったが、念仏だけでいいとなると、誰でも僧の仕事ができる。そこで私度(しど)僧(自分免許の僧)が輩出し、念仏聖(ひじり)の多くが諸国を回った。これらの僧のエネルギーは、民衆の教化に注がれた。 もっとも聖は食い詰めて乞食すれすれの者も多く、聖を歓迎し、癒やしや祈祷を期待する者がいる半面、聖が来ると金品を騙(だま)し取られ、娘や女房も奪われる、というので警戒し、村の入り口に立番を置き、入れさせないこともあった。
この信仰は、主要な仏典にある正統的な仏教とはまったく異なる信仰であって、既成の仏教からの反発は強く、迫害が盛んであった。法然の弟子に、親鸞がいる。
<親鸞>
親鸞は、女人の立場を明白にした。女も一人の人間であることを主張し、正式に結婚した。それまでも僧は少数の例外を除いて世帯を持っていたが、私的な関係にとどまっていた。僧侶が自分の寺院や坊を実子に継がせようとするとき、まずその子を自分の弟子にし、次いで彼を一番弟子として認証する、それから・・・というような面倒な手続きを取ったりした。
僧とは妻帯している者、聖(ひじり)とは独身主義の者、という区別をした時期もあったようである。親鸞は仏僧の結婚を制度として認め、これによって、日本仏教は明白に正統的な仏教とは別の道を歩むようになった。さらに、いまや救われるのは念仏信仰しかない、これ以外には救いはない、という主張が決定的になった。親鸞は自分自身を非僧非俗であると言い、愚禿(ぐとく)と称した。出家は否定され、在俗のままでよい、とされた。こうして「俗世間の聖化」がされた。彼は栃木の高田を本拠として伝道した。
<蓮如>
ここで蓮如に至る。京都大谷に法然や親鸞の墓所があり、その廟(びょう)を本願寺と称し、住職を留守役と言ったが、その7代目が蓮如である。留守役は墓守にすぎず、経済的にも困窮していた。しかし、宗教的な天才であった蓮如は親鸞の教説に徹し、たくさんの帰依者を得た。本願寺はこうして墓守以上の勢力を得るようになった。
栃木の高田派は「秘事法門」といって、僧が信徒の往生を認定し、保証する制度を持っていた。蓮如はこれを激しく攻撃し、仏敵の最たるものであるとした。蓮如にとっては、個人の信仰だけがその人を救うからである。寺に寄進して、それで後生を保証してもらう、などというのは念仏信仰からは遠いのである。人は念仏を唱えるか、唱えないか、それしかないとした。
蓮如は多くの帰依者を得、高田派の寺が続々と何百も本願寺派に鞍替えした。すると、これらの寺から蓮如は本尊の仏像を持って来させ、それらを壊し、風呂で焚(た)いてしまった!
紙に「南無阿弥陀仏」と書いたものを与え、これを壁に掲げて念仏しなさい、すり切れたらまた書いて上げる、と言い、すべての家庭に与えるようにした。また、人は生きている間に念仏することで往生が決まるのであり、親鸞が「自分の親であっても線香一本もあげない」と言った教えを強調し、先祖の供養を否定した。
蓮如の方針としては、弥陀の前には僧も信徒も「御同朋」であるとし、僧は上座に座ることもいけない、とした。
浄土念仏宗の「弥陀の慈悲」の教えは、「慈悲の哲学」である。悪人でも救われる、ということから、琵琶湖の堅田の海賊の頭目は、彼の高弟の1人であった。倫理の実践は「行」に通ずるのであり、これは慈悲の哲学に合致しないとされた。
しかし、後に蓮如は「バクチはいけない、バクチを打ったものは除名する」などと言い、倫理項目を制定するに至る。やはり無倫理ではやっていけなかったのであり、こうして「行」の思想が入ってくるのを防ぐことはできなかった。
さらに、晩年になって蓮如は変化し、「後生御免」(往生を保証する)の書き付けを側近に与えたりして、あれほど攻撃した高田派の「秘事法問」にも似たことをやった。こうして「ただ念仏のみによる」という救済観も変化した。
彼の死後、間もなく浄土真宗は、「先祖供養」の宗教に戻ってしまった。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇