米国社会は、共同体の存在という点では日本とはずいぶん違っている。その意味では、米国と日本はほとんど対極にあると言えそうである。
職場というものは存在しない。人事は日本流に言えば、非常に落ち着かない。普通の会社では、平均して1年間に従業員の半分が入れ代わるという。能力のある者は、引き抜かれる。能力のない者はクビになる。企業側の自由で、簡単にクビにできる。「あなたは本日をもって解雇されました」と言うだけでよい。
組合は、これに対して異議を唱えられない。ただ、組合が強い場合は、古い者を守り、新しい者からクビにするという協定を結ぶことはできる。「企業経営とは要するにハイヤリング(雇い入れ)とファイアリング(首切り)のことである」という言葉もある。「優れた者を入れ、不要なものを出せ」ば、企業は成功するという思考である。
また、原則的には定期昇給はないので、同じ仕事であれば、勤務年数にかかわらず、給料はほとんど同じである。事務職も含めて、その不安定さはだいたいがアルバイトと同じである。失業保険をかけてくれる会社は、超一流の会社のみ。日本人の目から見ると、このような労働慣行からは投げやりな仕事ぶりが生じるのも、しごく当たり前のようにも見える。
昇給の機会は、自分で掛け合って上げてもらうか、働きぶりを認められて他所から引き抜かれるか、その2つしかない。自動的な昇給はない。
優秀な者は引き抜かれる。「来週で辞めます、来週から〇〇で働きます」と言うだけでいいのである。1つの企業に何十年も働いているのは「無能」の証明で、誰も引き抜きに来なかった、ということである。このような慣行では、幹部の養成は困難で、幹部は他所から引き抜いてくる例が多い。
だいたい1つの企業に留まっている限り、出世の希望はないので、いまの企業に対する忠誠心も期待されていない。
共同体の欠如
米国で、友人の日本人留学生が1960年代の後期に、デトロイトのGMの工場で夏季にアルバイトをし、検査係をやった。完成車にエンジンをかけ、ライト類、ブレーキ、ホーン、ワイパーをチェックする。それだけの簡単な検査である。ところが、2台に1台が動作不良で生産ラインに戻されると言っていた。簡単なテストでもこうだから、ちゃんと見たらどうなっているか分からない。GMの車は買うな、というのが彼の感想であった。
マリアン・ケラーの “Rude Awakening” には、このような完成車の不具合を修正する作業場のために、GMでは工場面積の12パーセントを割いており、トヨタの高岡工場の場合、それは1パーセントにすぎないと言っている。
自分の会社が造る車の品質に関して、日本人はそれを自分の名誉に関わることであると考えるが、米国人は、自分は組立工にすぎない、自分がやるべき最上のことは、与えられた時間に決められたことを正直にやる、ということである。それ以上は求められていないので、会社全体のことまで考えるのは出過ぎである。会社が良い車を造るように考えるのは、社長と幹部の責任である。そのように思っている。
米国の労働者にとって、自分と「会社という全体」の間の有機的なつながりは極めて薄い。自分は時給いくらで雇われており、その時間だけ現場で働けばよいのである。
(注:自分が買った新車に不具合があれば、日本人はとんでもないことだと感じるが、米国人はそれで当たり前だと思う。修理に出すと、部品は1万マイルまで無料であるが、工賃はそうでない、ちゃんと取られる。皆そんなものだと思っている。一般に月曜に生産された車は買うな、と言われている。二日酔いのせいでエンジンの中に工具が忘れてある、ガソリン・タンクにコーラのビンが入っていたりするという。これでは日本車が売れるわけである。)
共同体の中では、成員は栄誉と恥辱を共有する。自分の家族に良いことがあれば、自分の名誉でもある。日本人は自分の会社が良い車を造れば、自分の名誉でもある。このように日本の自動車組立工場は、米国と比べてより多く共同体性を持っていると言える。
それに反して、米国の生産の現場には共同体性が欠如している。自分の現場から不良製品が出ても、責任は感じない。自分が気を付けようとは思わない。トップが変なヤツを特定してクビにすればいいと思っている。皆バラバラである。
共同体の欠如を補う・・・個人的なもの
日本とは、いわば対極にある米国社会である。職場の共同体は存在しないし、また家族の共同体も極めて希薄である。結婚生活が苦痛であるか、退屈であればサッサと解消する風潮が昔から強い。自分自身の幸福の追求ということはあるが、それが自分の子どもに及ぼす影響についての顧慮や責任感は希薄である。
現在、カリフォルニア州では、10組の結婚のうち9つが壊れるという。全土にわたってその割合ではないと思われるが、米国においては、家族の共同体は一般にほとんどその機能を失っている、と言ってもよい。
だから、キリスト教会の倫理も、離婚者は罪を冒しているのだから除籍などと言っていると、教会は「義(ただ)しい人のクラブ」になってしまう。かといって無倫理であってはならず、米国の教会の苦悩がそこにある。
(注:家族の絆は希薄で、若者は家庭内で親に反逆する。社会にも反逆し、社会が掲げる人間像、健康で勤労意欲のある人間などというものを嫌悪し、破滅的な生活をする。アルコール、薬物、麻薬の依存、犯罪がはびこる。しばらく前のニューヨーク・タイムズ日曜版によると、全米の高校生に過去30日間に「泥酔」したことがある者は、と質問したら30パーセントが「イエス」と答えたと。(『New York Times Weekly Review』March 2, 2003 朝日新聞社)。薬物、麻薬、アルコール依存は若者や貧困階級ばかりでない。実業家、学者、弁護士、医師、政治家にも広く及んでいる。)
もともと人間は、バラバラの状態には耐えられない。何らかの共同体に所属していないと、健康な精神状態を保てないものである。だから、何かに所属したいとする、健康な願望があるのが普通である。米国の社会には、そのような職場と家庭の空虚を満たすための、共同体に似た仕組みを多く発見することができる。
これは、日本社会には人を孤独にさせる仕組みが多くあるのと対照的で、逆のケースである。米国社会のそれらの擬似共同体のような仕組みには、個人的なもの、組織的なものの2種がある。
だから、米国人の行動形態として集まるのを好み、集まることを喜ぶのである。政党の集会でも、人はよく集まる。政治家のまったく平凡な演説でも、拍手喝采する。日本人は驚く。まあ、歌舞伎の掛け声みたいなものである。
映画も米国人は劇場に見にいく。スポーツ観戦で言えば、野球は日本で一番観客を集めているのであるが、それでも神戸ではイチローはほとんど毎晩たった4千人たらずの観客の前でプレーしていた。米国では、フランチャイズを持っているプロ野球の球団は4軍まである。球場が約400あり、400ほどのプロ球団が、それぞれの球場に所属している。
ところが、そんなに盛んな野球が、バスケット、フットボールに次いで第3位の集客力にすぎない。米国人がスポーツ観戦のために外出するのを、どんなに好んでいるかを示している。
パーティー
パーティーは、日本人にとってまったく理解できないものの1つである。取引先の人を招待するということなら、日本人にも理解できる。そういうものもあるが、米国のパーティーは自分の家庭に知り合いを招くので、眼目はオシャベリであって料理ではない。基本的にはパーティーはその場限りの、臨時の擬似共同体である。
参加者は、その時その擬似共同体に所属するのであり、所属願望は一時的に満足させられるのである。これは、玄関を出た途端に解消される。翌日、人前で招待のお礼を言わないのが習慣だと聞いたことがある。
料理はどうでもいいので、クッキーとコーヒー、ジュースくらいのパーティーは幾らでもある。それでも夫婦でやって来るので、日本人にはまったく信じられない!
日本では、親戚以外に友人で集まって飲み食いをする機会というのはまず聞かない。せいぜい幼稚園の父兄の中で気の合った家族でバーベキューをやるくらいである。それも、卒業するあたりで途切れる。
また、職場の関係者で集まりをし、飲み食いをするときは、何県出身者とか、何期入社者の集いとか、〇〇同好会など理由がつく。それは日本ではどんな集まりでも、家族の共同体や職場の共同体を「破壊する」つもりはない、これらに「対抗」するものでもないことを、表明しておかねばならないからである。
気に入る者だけで集まった、気に入らぬ者は声を掛けなかった、という「不公平」な形を取ってはならない。それは派閥であって、いけないことである。そういう思考がある。つまり、家族と職場の共同体に対して、脅威となるものを構成してはならないのである。だから、「第〇〇期XX会」などと銘打てば、私的な派閥ではない、ということになる。
勤めの帰りに飲む場合も、たいてい職場内、またはその時組まれているチーム内のことである。もし自分の課などを越えて誰かと飲むなら、極めて少人数の個人的な付き合いに留まる。
これに反して、共同体の希薄である米国社会においては、臨時の共同体としてのパーティーには誰を招こうとも自由で、10人でも20人でもよい。誰に招かれるか、ということは自分の社会におけるステータス(存在のレベル)を示すものである。日本では会社の肩書が重要であるが、米国では、どのレベルの人に招かれるかが、それにも増して重大である。これは米国人が、ものすごく神経を使うことでもある。
そこでパーティーに招かれてはいないが、出ることによって箔(はく)を付けたいと思う者もあって、何食わぬ顔をして出席する。招いた方も荒立てはできない。これを「ゲート・クラッシャー」と称する。招く方ではゲート(入り口)を守っている。自分より階層の低い者がやたらに来ては困る。クラッシャー(壊すもの)は、それを突き破るが、招待者はこれを咎(とが)めたり荒立てたりはできない。無視するよりほかはない。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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