人間は1人では生きていけない。何かに所属することが必要である。自分の所属する小宇宙が必要である。日本の社会を考えると、人々は2つの共同体に所属しており、概して日本人はそれによって所属願望を満たされている、と言える。
しかし、日本人はその願望を満たされているが、実は飽和状態である。つまり寝ても覚めても、平均的な日本人は仕事のこと、会社のことが頭から離れないのである。日本人は、むしろそのために疲れている。彼は2つの共同体によって窒息しそうである。できれば、そこから一時的に脱出して自由を味わいたい、そうでないともう死にそうである。
日本人は、これらの共同体にのみ安住ができる。これら2つの共同体がなくては、生きていけぬのである。これらは彼を守ってくれる外殻である。しかし、たまにはそれを脱ぎたい、そこから脱出したいのである。脱出がないと、窒息するのである。ただし、その脱出はあくまで一時的な家出であり、脱走ではなく、移籍でもない。
日本人は、このような共同体への帰属の状況から「一時的に脱出」したいのである。精神的な健康を保つためには、それが必要である。いつも家族と職場の共同体の中にいると、窒息するのである。そうして、実はそのような「一時的脱出」のための仕掛けが日本社会には満ちている。
繰り返すと、職場の共同体は日本人に精神の安定を与えるのであるが、なおその職場が与えるストレスから解放される必要がある。「一時的脱出」 は、そのためである。共同体の中にいると、自分が本当に言いたいことを言えず、やりたいことができない。それで自分を偽っているのでは、というような疑問が生じる。それで日本人は真の自分を見つめ、自分と対面する機会が欲しいのである。では、日本人はどこにそれを見いだすのであろうか。
寅さんシリーズ
「男はつらいよ」寅さんシリーズ(主演:渥美清)は、1969年から95年まで26年間にわたり48本が作られた。同じ俳優の主演によるシリーズ物としては、世界記録となっている。48本のすべてが多数の観客を動員してきた。
主人公は、しがない香具師(やし)である。学歴がなく、定職がなく、祭礼から祭礼へと地方を巡って物品を販売する。企業に勤めているわけではないので、職場の共同体などはない。家庭を持たず、風来坊である。辛うじて彼を支えているものは生い育った地、柴又だけである。しかし、そこも安住の地ではない。所帯を持たない風来坊である彼は落ち着かず、妹さくらを心配させるだけである。
このような寅次郎の生きざまは、一般の日本人にとってはとんでもない生活であり、平均的な日本人にとっては忌避すべき生活である。親にとっても、自分の子どもに絶対になってもらいたくない姿である。
では、なぜそのような人間像を主題とした映画が、毎回ヒットしたのであろうか。観客が見たいのは、寅次郎が持っている「自由」である。彼は職場に所属していないので、上司から命令を受けることもないし、部下に対する責任もない。だから、正直に自分のあるがままの姿を、いつでも表現できる。彼はその自由と引き換えに、安住の地を捨てるという犠牲を払っているが、この犠牲は現実の日本人にとっては大きすぎて払えないものである。
寅次郎は、共同体の中で働く日本人すべてのノスタルジックな憧れの的である。自分には、到底得られない自由を持っているのが寅次郎である。この人間像を見て、日本人はホッとする。盆と正月、年に2度ホッとするのである。
日本美術の特質
そのようなわけで、日本の文化には著しく個志向的なところがある。それは見る者を一時的にではあるが「個人そのもの」にさせるのである。日本人が現実の生活では得ることのできない、「個」を精神面において得ようとしているからであると考えることができる。
日本の絵画の多くは、それに対面する人を孤独にさせる機能を持っており、それが花鳥、また風月であって、表面にはその美しさが描写されているようであっても、実はその最深部には、見る者を孤独に誘うものがある。いつも誰かと密接な協力関係にある日本人は、そこで自分が孤独に誘われ、ホッとし、癒やされるのである。
それはダリの絵画のごとく、歪んだ道具(時計など)によって、人間の置かれている不安定な状況を表現するというようなものではない。もっと直截的、直観的なものである。
日本の庭園にしても、人と会うため、またパーティーを賑やかに演出するための舞台ではない。人を孤独にさせ、たとえ周りに多くの人がいたとしても、自分を宇宙に浮遊する一個の存在として自覚させる機能を有している。
龍安寺の方丈庭園(石庭)なども、まさにそうで、これは石の美しさを見せるのでなく、その配列の巧みさを示すのでもない。見る人をして、「宇宙に浮遊する者としての孤独感」を直感させるものである。その意味で、これは世界でも他に例を見ない仕掛けである。
この石庭は、注釈を必要としない。日本人は、ここで非日常の体験をするが、その非日常とは「個」としての自分に対面することである。日常の生活の中では、許されていない「個」としての自分を日本人はここで見るのである。
龍安寺を2000年の春に訪れたとき、石庭の縁にじっと座って、見とれている若者たちがいた。約30人のうち、だいたいが20代以下のようで、ほとんどが座り込んで見ており、立っている者は少数だった。ここには、まさに日本人の姿があった。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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