家族の共同体
日本の家族は、米国社会の家族よりもずっと強い絆を持っている。もちろん、そう言い切るのは容易なことではない。2つの社会の家族の内情などというものについては、一般論しか言えないのであって、それは当たり前のことである。家庭に入り込んで調査をするなど、普通はできない。家庭は個人的な事情の塊であって、外部の人には取り繕いもある。自国の家庭でも難しいが、外国の家庭に入り込んで観察をするなどほとんど不可能である。
そこで、家庭の状況を測る指標のようなものとして、「青年層の社会に対する態度」を取り上げてみたい。あるいは見当が違ってくるかもしれないが、ある意味で公平で客観的な物差しであろう。
日本では、青年層の社会に対する反逆がほとんどない。彼らは日本の社会に対して自暴自棄的な態度を取っていないし、アルコール依存、麻薬依存などの社会問題も極めて少ない。これは米国社会と比べても、欧州、アジアのどの社会と比べてもいえることである。
これは一般に、日本では家族の絆が有効に働いており、その絆が青年層に安定を与えていることを示している。家族は若年層を守っており、彼らは家族と社会の中で、自己の積極的な価値付けを与えられているといえる。もちろん、文句はいくらでもあることだろう。反逆的な若者はいつでもいるし、理想の社会も理想の家庭なども、存在しないのは当たり前である。
ただ世界の他の社会との比較において、日本はケタ違いに良い状況である。日本の若年層には、自分たちの親の年代層に対する尊敬がある。だから、若年層は社会の秩序を尊重し、これをみだりに破壊しようとはしていない。若者の97パーセントが12年間の教育を受ける(高校を卒業)。これは、世界のどこにも見られない。さらに、その7割ほどが専門校、大学などで教育を受ける。
キリスト教会という礼拝者の共同体は、強固な家族の共同体のあるところでも、ないところでも発達してきた。だいたい家族の共同体は、おおよそ、これが存在しない社会というようなものは考えられない。
ただ米国における黒人は、その不幸な歴史よりして、ほとんどの黒人が家族の共同体を持たない社会を形成しているかに見える。これは世界で唯一の現象かもしれない。
職場の共同体
そこで一応、家族の共同体の存在と、礼拝者の共同体としての教会の関係についてはこれを措(お)くこととして、目を転じて、日本社会のもう1つの共同体である「職場」を取り上げて考えてみたい。
日本社会にあって、たぶん他国の文化には見られないものとして、この職場の共同体というものが挙げられる。職場という概念は、日本独特のものといってよく、英語にはその概念はない。だから、「職場」を英語に直そうとしても不可能である。それは「職場」が英米の社会に存在しないからで、翻訳できないばかりか、説明することさえ困難である。
職場の共同体は家族の共同体の反映、または延長である。日本人は自分の会社のことを「うちの会社」、相手の会社のを「お宅の会社」と言う。この場合「あなたの家庭の」という語が、「あなたの」の代わりに使用されている。つまり「自分の」と言う代わりに、「自分の家族の」という表現を使うのである。このように共同体性が前面に出て、個人が単位ではなく、家族という1つの「全体」が単位となる。
たぶん、このように「うちの」とか「お宅の」と呼ばれるものは、会社や職場の場合が一番多いだろう。
日本人の意識の中では個人と家族が入れ代わることがあり、その境界が明白でないことがある。両者の間に厳然たる区別がない。これは、日本人の意識の中では「自分」を考えるとき、家族、また「宅」を意識することを示している。
職場においては、女房役という言葉も使われる。これは米国や欧州ではエグゼクティヴに使用すれば侮辱であろうが、日本ではそうでない、むしろ賛辞である。藤沢恒夫は、本田宗一郎の女房役であった。宗一郎は生産の現場を最後まで離れることがなく、常に手はグリースで汚れ、彼の情熱は良い車を造ることであった。
ホンダが20人ほどの従業員の町工場であったときに、宗一郎は藤沢を見いだした。彼は人事、財務、営業のすべてを藤沢に委ね、社印を預け、自分はそれに触れようとしなかった。こうして浜松の無名の1工場は、やがて世界の巨人となった。
しかし、両人は個人的には互いに嫌い合い、何十年も直接に話し合ったことがなく、社内電話で話し合うこともなかった。自分たちだけで話せばケンカになり、決裂に至ることが分かっていたからである。両者が一緒の部屋にいるのは、公式の機会だけであった。しかし、絶対的に相手を必要とし合っていた。この例から、女房役とは友情の代名詞ではないことが分かる。(軍司貞則『本田宗一郎の真実』講談社文庫)
「女房役」という言葉は、公式の席においても誰かを褒めて言うのに使われる。リーダーは発展と成長を考え、女房役は内部のマネージメントを考えるのである。
これは、時として軍隊の組織の現状を描写するときにも使われる。将軍は攻撃を考え、幕僚は内部のマネージメントとロジスティックスを考える。そのような役割を、「女房役」と称するのである。
もし米国のエグゼクティヴに対して「あなたは wifely role を果たして」いるとでも言えば、たぶんこれ以上の侮辱はないであろう。女性のエグゼクティヴに対して言えば、侮辱として受け取られ、セクハラ訴訟を起こされるかもしれない!
このように日本では称賛のはずの表現が、米国では侮蔑を表現するものとして受け取られるのである。ユダヤ教・キリスト教的な(または西欧文明の)男性重視の伝統とは異なって、日本文化では女性の役割重視の伝統があり、それがここに反映されている。
現代でも日本の家庭では、経済の取り仕切りは妻の責任であり、妻が夫の給料を管理し、夫の小遣いの額を決め、夫は妻から小遣いをもらうのである。そんなことを米国人の男性が聞けば、驚きで卒倒することであろう。
子どもの行く学校(小学、中学)を決め、ピアノを買う、家を買うかどうかの決定をするのはだいたいにおいて妻である。もちろん、夫の同意は必要であるが、発案し、計算し、主要な要素を拾い上げて決断のための準備をするのは、ほとんど妻の側である。これは米国では、まず見られない現象である。
日本の家庭では、妻は夫の部下であるが、同僚でもある。たまには上司でもあり、このことが家庭における妻の挫折感を少なくしている。日本の離婚率が低いことと、また若年層の挫折感の少ないことには、これも1つの要因であると考えられる。
また、日本でウーマンリブ運動が低調であるのは、女性の意識が低いからであるとされることがある。そうではなく、これは女性の役割と権限が家庭内に厳然として存在しているからだと考えられる。
女性はだいたい高校や大学を出てから、会社勤めをする。こうして働いて収入を得ることと、また集団の中で働くことを経験したのちに結婚を考える。だから結婚の適齢も、20代の半ば以後になる。
米国では、女性の結婚年齢は18歳が一番多いといわれる。高校を出て、すぐに結婚する。それと比べて日本女性の結婚年齢は少し遅い。人間としての成熟がより多く求められていることを反映している。結婚式においては、花嫁の上司が招かれて彼女の働きぶりについての賛辞を込めたあいさつをすることが普通である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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