触媒としての文化は不完全である
福音は、文化を「衣服」としてまとう。その文化は、触媒としての役目を果たす。衣服としての文化が不完全であることは、これまでに見てきたところである。しかし、それによっては「福音の真実性」は損なわれない。また、文化の不完全性は「触媒としての資格」を失わせるものでもない。
だからキリスト教は、その真実の姿をラインホルド・ニーバーに至って初めて現したのでなく、黒人神学において初めてその真理性を獲得したのでもない。いわんや20世紀の日本において世界で初めて無教会主義という形で福音の真理が把握されたのでもない。
不完全な文化をまとってきたキリスト教は、たとえその文化と倫理に大きな欠陥があったとしても、それはなおイエス・キリストの福音の伝達の器として有効に用いられたのであった。オランダ人は、彼らの信仰で救われ、神の栄光を現した。また、マルティン・ルターもそうだった。
ラインホルド・ニーバー、内村鑑三、また黒人神学などによる告発は、それぞれが真実である。これらの告発により、過去のキリスト教信仰の欠陥が明らかとなっている。しかし、それらの欠陥はキリスト教の信仰と実践の福音伝達の器としての有効性を否定するものではない。また、これらの告発者であることが、究極的な真理の独占的な所有者であることを保証するものでもない。
無教会のある雑誌で「教会の外に救いあり、教会の内に救いなし」のような標語を掲げているものがある。これほど徹底的な無効宣言ではないが、ジェームス・H・コーンも伝統的なキリスト教に対して同じような主張をしている。
伝統的キリスト教信仰には、確かに欠陥がある。しかし、だからと言って、それは決して救いの手段として無効なのではない。福音は、むしろそれぞれの時代の倫理的誤謬(ごびゅう)や思想的誤謬と「積極的に複合し」て、それを通して社会に受容されていった、と言えるのではないか。
先に「進歩」ということが歴史理解のカギとなっており、それに従ってキリスト教国の行動のパターンが出来上がっていることを見た。イエスの言われた「あなたの敵を愛しなさい」という命令は、ストア派の倫理によってばかりでなく「進歩」の概念によっても歪曲され、忘却されてきたことを述べた。
人類の文化は、決して単一の路線を通って進化したのではない。それぞれの社会が特色を持っており、進歩したとされている社会が、必ずしもその成員に幸福を与えることに成功しているわけではない。先進国に、かえって非人間的な社会が出来てしまっている場合も多い。
(注:アメリカ合衆国は非人間的な社会の好例で、米国の黒人の成人男子のうち、服役中の者の率は、アパルトヘイト時代の南ア共和国のそれを上回っている、とトーマス・フリードマンはニューヨーク・タイムズで言っている。N.Y.Times Weekly Review。なお、記憶よりの引用で日付は確認できていない)
日本は、特に近世において独自の繁栄を遂げ、豊かな文化を持つに至った。その文化は古代から中世にかけての積み上げの上にある。このような日本的エートスをキリスト教が否定すれば、拒否反応が起こるのは当然であろう。だがその場合、拒否されているのは福音でなく、西欧文化である。または自国の文化を見下げて、聴衆を叱責する伝道者の態度が反発を受けているのである。
現在、プロテスタント・キリスト教が持っている倫理の特徴は、個人の尊厳の徹底と民主主義ということで、その陰の部分は「遅れた」文化を軽蔑をもって見るということであろう。もちろん、民主主義は西欧ばかりでなく世界の政治思想の理想で、最高の形態である。それは、誰から見ても異存のないところである。
聖書にも、この民主主義的な社会を示唆するものや、またこの形態を支持する原則はある。「1人の魂は、全世界より重い」という有名な宣言もある。新約聖書のこの宣言は、2つの意味を持っている。1つは、永遠の世界においては1人の魂は絶対的な意味を持っているということである。もう1つそれから派生するものとして、現実の世の中においても、1人の人間の人格とその決断とを尊重すべきだ、ということである。
聖書は、初めの意味を絶対的なものとして述べているが、あとの意味については柔軟である。なぜなら聖書のバックになっている社会は、古代の混乱の社会である。民主主義や個人の尊厳の追求といったものを許すような政治形態や、そういった社会はまだ存在していない。それらを考え合わせると、この聖句の中心の意味は、神の国における霊魂の重さということであり、社会的な平等は第1義ではないことが分かる。
旧約聖書には王制、封建制、あるいは戦国の権力者割拠の時代など、さまざまな政治形態が並置されており、そこに生きるキリスト者の姿が生き生きと描写されていることはすでに述べた。それらのただ中で、キリスト者たちが救われ、またそのただ中で(戦国時代の殺し合いの中でさえも)神の栄光を現している姿を見せている。
このように旧約聖書が教えるのは、人類は単一のルートを通って「進歩」するのではないということである。むしろ、さまざまな社会の在り方があり、その中で人が救われ、そのような社会の中で人は神の栄光を現し、祝福されるということである。
民族や社会や国家の「進歩の度合いを現す偏差値」は存在しない。神の祝福は、どの社会にもあるのだ。日本の社会も、そのままの姿で神からの祝福を期待することができるのである。
もしそうなら、日本宣教に当たって「個の自覚」や「独立した人格」などを教えなくてもいいので、日本人は日本人のままでいいことになる。集団主義が好きならそれに固執していても、そのままで良いのである。「おかげさまで・・・」とか、「お世話になっております・・・」とか、連発しながらでもいいことになる。もしそれでいいということになれば、その時、日本宣教は余計な重荷から解放されることになる。
日本的倫理を大切にする
牧会書簡には長老(牧師)の選出に当たって「教会外の人々にもよく思われている人」であることを強調している。これは伝道職にある者、また教会の責任を負う者は、世間一般に行われている人物の評価の基準にも合格せねばならないということを示している。
つまり、教会内では「立派な信仰」や「熱心な信仰」の持ち主であるとされていても、社会の常識から見て偏屈、狭隘(きょうあい)、独断的、冷酷などという印象を与えるようではいけない。また、社会から斥けられるような人格ではいけないということである。
つまり、教会はここで世間の倫理基準を大切にするように教えられている。言い換えれば、日本社会の倫理基準や価値判断と教会内の基準が連続するように命じられているのである。教会内の倫理と世間の倫理が不連続であってはいけないことを、この場所は教えている。
集団性のエートスを大切にする
日本文化の特徴として真っ先に挙げられるものは、集団性ということであろう。
日本では何かを決断するとき、自分のことだけ考えて決めてはいけないとされる。それが自分の上の者にどう評価されるかを考えながら、また下の者にどんな影響を与えるか、自分は周囲にそのような影響を与える資格があるかなどを問う。
離婚を考える者は、子どもに対する影響と責任を考える。もちろん、世界中の親が大なり小なりそうなのであるが、日本では特にそれが深い。「世話してもらった結婚」なら仲人にもあいさつせねばならず、一応は説明もしなければならない。
日本文化においては、「人間」とは「人と人の間」なのである。単に「個人」なのではない。日本人は常に周囲を考えて行動するように、周囲を考えて決断するようにと教えられ、それが文化になっている。
個人と訳されている言葉は「インディヴィジュアル」である。「ディヴァイド」、分割するという言葉から来ていて、これ以上は分けられない、という意味である。人間存在の一番小さな単位、つまり1人の個人である。ところが、日本語では「人間」と言う。それは人と人の間柄であるから、少なくとも2人は必要になる。
そこから日本人とは周囲に影響される、自分で決断するのがあまり得意でない人間になってしまう、そういう危険性はある。しかし、それが安全で温和な社会を作っている面も大きい。
そういう日本社会であるから、集団の意思決定に達するための、日本独自の過程がある。それは、西欧的な意思決定のプロセスとは非常に違う。
西欧的な社会では「個人」が単位であって、お互いが対立するのは当然で、互いに論議を述べ合うのも自然である。日本人にとっては、それはとげとげしく、疲れる関係である。
繰り返すようであるが、現在の日本のキリスト教宣教においては、日本的なエートスを拒絶する説教が多く、もっと日本が民主主義的でないといけない、町内会はいけない、天皇制はいけない、女の人の人権を尊重せねばならないとかいうようなものが多すぎるのである。
なるほど、それらはみな大切なことばかりだろう。しかし、それは重要な主題であるが、福音宣教そのものではない。
日本人は、特に家族と職場の共同体の中にいることが心地よい。家族に対して不満はいっぱいあり、職場の人間関係にはコリゴリかもしれない。しかし、なお日本人には家族関係のない生活、また職場のない生活など、集団に属していない生活というものは考えられないのである。
(注:シベリアの日本兵捕虜収容所では入浴の際、入り口に石鹸の小片がかごに積んであった。その石鹸を1人が1つずつ取って入る。済むと返して行く。これはもう日本人にとってはごく当たり前のことだが、ロシア兵と蒙古兵にとっては驚きである。自分たちだったら、初めの10人ほどが石鹸をみな取ってしまって返さない。日本人はバカだ、なぜ盗まないのかと言われたという話がある。これは作り話かもしれないが、国民性をよく表現している)
日本人は継続して、緻密な集団生活の中で生きていくという前提を持っている。そのような中で、盗みをすればすぐバレるだろうし、そこで他人からドロボウという烙印を押されてしまって暮らしたくはない。
このように日本人の場合は、濃密な集団生活と「恥を知る」文化がセットになっている。集団による承認を大切にする国民性である。誰に何と思われていても、自分は自分だ、構わないというのでない。他人にどう思われているかを重要なこととする文化である。それでこの「恥を知る」文化が犯罪のブレーキとなり、温和で平和、清潔な社会を作っている。
日本の社会が温和で平和である、などと言うと驚く人が多いかもしれない。こんなに悪い社会なのに、と。しかし、実際そうなのであって、麻薬の乱用1つについても、諸外国の例からすれば皆無と言ってよいレベルなのである。
(注:ラフカディオ・ハーンは、彼の著書『神国日本』T & T Clark の中で、東京の町の1897(明治30)年ごろの車引きのことを述べて、日本では、若い人力車引きは、自分の力が余っているからといって、老人が引く車を追い越したりはしない。そんなことをすれば、老人の仕事を奪うことになるから、と言っている。そうして、そのような思いやりの文化は他の国にはないと言っている。そんなこと、現在の我々から見て信じられないのであるが、明治の頃はそうであったらしい。来日して旧制第五高等学校の教師、東京帝国大学講師、早稲田大学講師などを務めた。帰化して小泉八雲と名乗った)
日本的な考え方では、人間は常に何かある集団に属しており、そこでの行動については、当然その集団から期待される面があるのだと考える。そうして人間は、今いる集団の人々と無関係に存在しているのではない、と考える。それが日本人の意識である。そうして他人との関係を意識せずに行動する人を見ると不愉快に感じ、わがままであると思う。そういう人が周りにいれば、居心地が悪い。
日本人は「しきたり」を気にするが、「しきたり」とは、いわば集団の中での行動の古くからのパターンで、長年それでやってきて実証済みのもので、生活の知恵である。コンピューターで言えば、バグが出尽くして使いやすい「枯れた」ソフトである。
先に梁石日(ヤン・ソギル)が、日本人には海外移住願望が少ないと言っていることを紹介したが、それとこれとは合致すると言ってよいであろう。
宣教学は、日本人のこのような性質を認識する。それが良いか悪いかなど、価値判断をしない。それは宣教学の仕事ではないのであって、そのような日本人にどうやったら福音を伝えられるのか、そのようなクセのある日本人で構成される教会はどういう形態にするといいか、それはどんな性質を持つのか、などを分析し考究する。それが宣教学の任務である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇