急激な変化を嫌う日本人
日本人は伝統を重んじる。変革を嫌い、変革が必要なら、なるべくこれを緩慢に行いたいと考える。この日本人の気質は、理由がないことではない。急激な変革は社会や集団に歪みを起こす。その時、必ず弱者が犠牲になる。弱者に対する配慮が日本文化の特長である。
もちろん、そのような伝統重視では持ち切れなくなる時が来る。明治維新など、その一例である。しかし、その中にあっても弱者への配慮が生きており、無血革命が行われたのである。例外といえば、新選組と白虎隊であろうか。
米国は、変革が好きである。レーガンが大統領の時に、急激な改革を行い、その結果として全米にホームレスが出現、350万人に達した。単純に計算して、東京周辺の首都圏3千万人に当てはめれば、40万人のホームレスが一夜にして出現したことになる。
(注:その後米国は、経済が回復し企業の業績は順調になった、ということであるが、その実、貧民層はますます増大し、治安は悪化し、ロサンゼルス周辺だけを見ても、黒人の成人男子のほとんどが無職。彼らは麻薬、禁止薬物の取り引きなどで辛うじて生きている)
暴力組織は失業者を引き入れ、そのような組織の数がロサンゼルスだけで千を超えるという。これらはすべて、マシン・ピストルで武装している。ロサンゼルスの市警察は8千人であり、6連発ピストルしか携行していない。連発ピストルというのは、いちいち引き金を引く。連射は不可能。
ウジとかヘクラーとかいうマシン・ピストルは、中古なら1〜2万円で入手できる。これらはピストルであるから至近距離用、命中精度は良くないが連射性能で補う。機関銃としては信じられない軽さで5キロ以下のものもあり、体格の大きい人なら30発入りの弾倉をつけて脇の下に吊り下げ、背広でいちおう隠せる。暑いのに、背広やコートを着ている人にはご用心ということである。
これら暴力組織が連合して警察を襲えば、たちまちマヒする。ただし、黒人は連合が下手で、いつもバラバラである。それで助かっているとのことである。
(注:1998年の朝日新聞の報道によると、97年現在で、米国人口の3・5パーセントが「ゲーティッド・シティー」に暮らしている。これは団地全体を高いフェンスで囲む。ゲートを3、4カ所作り、機関銃を持ったガードマンに24時間中警備させる。2万カ所のそういう団地に、900万人が居住している。砦の中の町である。入居者は、その保安の経費として一世帯当たり年間に150万円くらいを管理事務所に支払う。これはもちろん税金以外の支出であって、これで初めて日が暮れてからも家の周りを散歩できる。また、もし日中なら子どもを外で遊ばせることもできる)
治安などということは「社会的負荷」という言葉で論じられる事柄なのであるが、通常は、これは社会を論じるとき無視される。計量が難しいからである。株価とか、利益率のような数字に出るものだけが注目される。だが、この社会的負荷の量、また実際の経済と、地下の犯罪世界の経済との比率などは、社会を測る重要な要素である。米国という重病人は、もう社会学的には末期がんかもしれないのだが、「地下犯罪世界」を計測する指標がないので、そちらの数値は出てないのである。
(注:西欧の都市では、あらゆるものにカギを掛け、男は腰にカギを20本ほど下げていないと生きていけない。日本の家は、日中は玄関にはカギを掛けるが、裏口や窓などにはカギを掛けていない。それだけ安全なのである)
現在日本では、さまざまな改革が叫ばれているが、なかなか進まない。ごく緩慢に変化が進んでいる。統計に出る数字を見れば悪化しているので、急がないと国がダメになる、という意見も多くある。しかし、改革によって振り落とされる人がなるべく少なくて済むように、緩慢に改革を進めているのである。
護送船団方式はいけないと言う。一番遅い輸送船に合わせて、高速の船舶もスピードを落として、周りを駆逐艦に守られて移動するのを言う。いまも日本はそれをやっている。多額の国費を出して企業を支え、銀行を支えている。理由は、やたらにつぶせば下請けや納入業者が連鎖的につぶれるから保護するのである。このように変化が緩慢なおかげで、日本の街頭や公園では失業者や若者がウロウロしていたり、昼間から路上で酒を飲んで泥酔し、路上でバクチを打っているといった光景はお目にかからない。
果たして100年後に見てどちらが良かったのか、日本式の護送船団方式は賢明だったのか、あるいは愚かなのか、それはなって見ないと分からない。ただ言えることは、日本式は「もう1つの、有効で合理的な選択肢」であるということである。もちろん、これには国債の問題も絡まるので、解答は単純ではない。
キリスト教が入ってくるとき、一緒に外来の文化も入ってきて、そういう日本人のエートスを否定するか、頭からバカ扱いするようだと、日本人はにわかに警戒し、心を閉じる。しかし、これは福音を排斥するのではない。文化に対して心を閉じているのである。
米国は日本のこのような護送船団方式を長らく批判してきた。ところが、リーマン・ショックでは保護政策に転じた。さすがのアメリカもつぶせないものはつぶせないのである。
また、長く時価主義を取り、事業体の価値は厳正に時価で計るべきであるとしてきた。ところが、サブプライム問題のあと、大手銀行などの資産の一部を時価でなく、買ったときの値段で認めるようになった。
これはサブプライムの商品の構成が複雑で、その損害が確定できないというのが一応の理由であるが、実のところはサブプライムの闇はあまりに深く、損害があまりに膨大ということらしい。その上でストレステストなるものを実施して、米銀は大丈夫である、健全であると米政府が宣言したので、世界の金融界はあきれたのである。
文化という見地から見れば、日本宣教は伝道における障害のすべてのタイプを持っているのかもしれない。であるから、日本宣教における文化の問題を解決すれば、それは必ずや他の国での宣教の問題の解決に役立つのではないか。
前述した米インディアン伝道の前進のため、また黒人キリスト教の成熟のための有効な示唆と解答も、日本伝道の模索の中から供給できるのかもしれない。日本は、いまは伝道の劣等生かもしれない。しかし、いま我々が格闘している問題は、いつの日にかアメリカの伝道を助けるかもしれないのである。伝道の優等生であり、世界伝道の原動力とも考えられている米国のアキレス腱、それを我々の研究と実践が助けることができるかもしれない。
国家を大切にする
日本は歴史の節目においては、自国の独立を大切にしてきた。蒙古襲来の時も、鎖国の決定に当たっても、明治の開国に当たってもそうだった。明治維新の前後には、西欧の各国の商人が、あるいは薩摩藩に、長岡藩に、会津藩に、幕府にと、武器、弾薬を無料で貸し付けようとした。つまり、日本の政治的混乱を助長し、それによって利益を得ようとしたのである。
これは植民地獲得の第一の方法である。イギリスは、インドをそのようにして征服した。「分裂させて、奪う」のであり、国内の古くからの対立を利用するのである。大国は、常に自国の利益のために相手の分裂を利用する。アジア、アフリカの新興国のほとんどがそのような毒手によって犯され、甚だしきは代理戦争を引き受けさせられたのである。
ところが、日本はそれに付け込まれず、内戦に至らなかった。いったん外敵が現れると日本人は一致結束し、他国がそこに付け込むスキを与えなかった。
それは、日本人が自分の属する集団を大切にするからである。自分が直接に所属するものばかりでなく、その上のレベルの集団(社会、国家)との一体感も持っているのである。こうして自分の国家の自由と独立を大切にし、自分の文化を大切にする。そのように、自分の独立を大切にする態度が混乱を防いだのである。
なぜ、そうなのだろう。1つには、すでに万葉の時代から言語が統一されており、共通の書字法によって文学的表現が行われ、それらを通して共通の国民感情が醸成されていたことと関係があるのだろう。こうして月を見ても、カササギの鳴く声を聞いても日本人であることの感情の共有、そうして感動の受け渡しが成立していたことが理由の1つであろう。
(注:幕末に多くの藩が、欧州に視察団を出した。彼らはみな、同じような質問をし、腰の矢立てから筆を出し見聞きしたことを記録して帰った。彼らの航海は香港、上海、マレイ半島、インド、アフリカの沿岸を回って半年近くかかって欧州に行った。沿岸の各地に寄港するたびに現地の労働者が白人にムチで打たれながら、靴で蹴り倒されながら仕事をしているのを目撃し、白人を主人とすることの恐ろしさを感じたのである)
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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